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高天神城 [城巡り]

高天神城
年月日:2016/04/30
見学時間:13:10-14:20
所要時間:1時間10分


小田和正のコンサートは18時からなので、
ホテルは13時チェックアウトのプランにしていました。
13時にホテルをチェックアウトして高天神城に向います。

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掛川城(大手門駐車場)から高天神城搦手口までは車で20分弱

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比高100mほどの山です


以前は、武田信玄が囲んで落とせなかった城と言われてきましたが、
鴨川達夫氏により資料の比定の誤りが指摘され、
現在では事実ではなかったという説が有力のようです。


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搦手門跡

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石段を登ります。

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搦め手門から5分ほどで、東の峰の西の峰を繋ぐ鐘曲輪です。

まずは東の峰から見て回ります。

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本丸虎口

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本丸石碑

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本丸土塁

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的場曲輪

大河内石窟から本丸を見上げると切り立った崖、
三の丸まで続く谷は断崖です。

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御前曲輪


顔出し看板は小笠原長忠とありますが、当時の文書では氏助、後に信興です。
高天神城に武田勝頼を迎え籠城しました。
信興の父氏興は今川に属していましたが、
武田信玄の駿河侵攻で今川氏親が掛川城に逃れると、
徳川家康に通じて掛川城を攻めています。

勝頼が高天神城を囲んでも、
天竜川沿いの二俣城を押さえられて浜松城に圧力をかけられていた家康は単独で援軍を出すことができず、
織田信長に援軍を求めました。
しかし、信長の援軍が到着する前に氏助は勝頼に下りました。

信長はよほど腹に据えかねたのでしょうか、
信長公記では、氏助が内通し落城とあります。
また、武田滅亡後に頼った北条氏政に信長の圧力で打たれたとか、
北条滅亡後に家康によって殺されたという逸話もあるので、
織田・徳川方としては一貫して裏切り者としているようです。
ただ、援軍のない籠城戦の場合、降伏する事はよくありました。
もちろん自らの陣営に立ち退く事もありますが、
援軍を出さない主家を見限って攻め手側に付く例も少なくありません。

勝頼が後に長篠城を囲んだように、
高天神上を攻めたのも家康に決戦を強いるためだったのでしょう。
しかし、兵力差と地理を考えれば仕方がない事で、
であればなお、氏助が武田に下った事は責められないような気がします。


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御前曲輪から掛川方面望む

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三の丸


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追手方面から東の峰と西の峰に向う分岐
ここから西の峰に向います。

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砂礫の壁面で崩れやすく、登攀が難しい事がわかります。
眼下に貯水池が見えました。

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切通し、虎口でしょうか

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鐘曲輪から井戸曲輪
ここから西の峰です

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西の丸


説明にある岡部元信(真幸)は、今川の武将でした。
桶狭間で今川義元が打たれ、今川軍が総崩れとなるなか、
鳴海城を守った元信は抵抗を続け、開城を条件に義元の首を取り返したと伝わります。
信玄の駿河侵攻で武田に属し、高天神城の守備についていたました。

長篠の戦いの勝利で勝頼に大損害を与えた家康は、
二俣城を奪還して天竜川沿い(信濃方面)の安全を確保すると、
諏訪原城を落とし大井川を抑え、
横須賀城と付城を取り立てて高天神城を孤立させました。
上杉謙信の跡目争いである御館の乱で、一度は景虎に付きながら景勝と結んだ勝頼は、
景虎の実家北条氏との同盟が破綻し、駿河に圧力を受けてしまい、
高天神城に援軍を出すことができませんでした。
半年近くの籠城の後、食糧が欠乏し後がなくなった元信は城を出て徳川方に突入し、
殆どが打たれました。
援軍を出せなかった勝頼は開城を許可したと言いますが、
信長は降伏を許しませんでした。
勝頼の信頼の失墜と抵抗したものへの見せしめの意味があったのでしょう。
その後、勝頼の叔父信廉は戦わず撤退、木曾義昌や穴山信君のような一門までもが離反しています。

武田家は重臣や信濃・上野・駿河の国衆の集合という中世の体制を残していました。
おそらく勝頼は、信玄以来の重臣を遠ざける事で権力の集中を図ったのでしょう。
しかし、家康と家臣団のような信頼と忠誠の関係を作ることはできず、
信長家中のような、実力と利益で繋がった集権体制を作る事もできませんでした。
元亀の織田包囲網を乗り切った信長や、
多くの城を見殺しにした上での三方ヶ原の敗戦でも離反を出さなかった家康との違いは興味深い物があります。


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西の丸高天神社(西の峰最高点)から馬場平にに向う尾根の堀切

多くの縄張り図では、
西の丸から南側に尾根が続き物見のような物があります。
井戸曲輪の南側(トイレがある)を登り物置の裏を見たり、
高天神社社務所の裏に回ったりしたのですが、確認できませんでした。
帰宅後に色々な縄張り図を調べたところ、どうも堀切から南側に回った方がよいようです

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馬場平

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馬場平から見た遠州灘

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甚五郎抜け道

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二の丸

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二の丸虎口

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二の丸と堂尾曲輪の間の堀切

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堂尾曲輪の西側の空堀
左側が堂尾曲輪

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空堀の先端あたり
右側が井楼曲輪

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井楼曲輪

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井楼曲輪と堂尾曲輪の間の堀切

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堂尾曲輪

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二の丸の腰曲輪と堂尾曲輪の間の堀切

断崖に守られた本丸に長い防衛線を作り、本丸・三の丸二つの拠点で追手を守る、
比較的単純な東の峰に比べて、
西の峰は西側に空堀を設け、堀切を入れ、西側の谷に対する防御が厚くなっています。


参考資料
静岡の山城ベスト50を歩く サンライズ出版
戦国の城 学研
高天神城・横須賀城パンフレット


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