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使命 [Essay]

彼女の祖母が亡くなった。
彼女にとって、祖母への思いは特別なものがある。
詳しくは書けないが、家族の中で、彼女の祖母は、彼女の唯一の理解者だったからだ。

彼女の仕事は看護師。
シフト制で、ちょうど移動や新規入職があり、休みも碌にとれない状態。
休みを取らなければ葬儀に出られない事はもちろん、
遠方で仕事が終わってから通夜に出るという事もできない。
彼女は、忌引を取らずに仕事をする。
そこには、彼女が休めばシフトが崩壊するという現実がある。

「人の命を預かる仕事に就いたのだから、家族の死に目に会えない事は覚悟しておくべきだ。
家族にもそれを理解してもらう必要がある。」
彼女は自分の仕事に厳しい。

驚くべき事だが、
彼女の仕事について、
「家庭の事情で働かなければならない女性の仕事」という認識の高齢者は多い。
それが、
「盆暮正月に休みが無いなんておかしい。そんなのまともな人のする仕事じゃない」
などという言葉になる。

「私が死んでも、あんたは会いにくる必要はない。あんたは仕事をしなさい。それがあんたの使命だから」
彼女にそう言ってくれたという彼女の祖母は、
彼女の仕事についても、一番の理解者だった。

今日、祖母の葬儀の日に、
彼女は、胸をはって仕事をしていると思う。

 [Essay]

認知症が進行して、ほぼ寝たきりだった祖母が、
ショートステイ先で呼吸停止になり、救急搬送され入院しました。

施設から連絡を受けた母は、叔母と連絡を取り合い、
人工呼吸器などの延命処置は辞退する旨を決めたらしいのですが、
病院に駆けつけたときには、人工呼吸器が乗っていたそうです。

祖母の運ばれた病院では、呼吸停止で救急搬送された場合は、
挿管と人工呼吸器が決められていたそうです。
僕が知る病院では、親族の承諾が無ければ人工呼吸器を繋ぐ事ができず、
それまでポンプで呼吸を維持するそうなので、病院によって違うのですね。

延命治療。
そうは言っても、一概には考えられません。

妹が医療関係に従事している事もあり、
僕の家族では、医療が話題になる事が多く、
家族では、過度な延命はしない事がコンセンサスになっています。
祖母の場合は、年齢そして認知症である事や寝たきりである事などから、
「これ以上は・・・」という気持ちがあります。
しかし、これが、
わが子や甥・姪であったら、少しの可能性・奇跡にすがってみたくなるかも知れない。




人間には、現実に直面してみなければ分からない事があります。

息子の障害が分かる前の僕は、
「一人で生きていけない程の障害を持っているなら、生まれてくるのは可愛そうだ、育てるのは可愛そうだ。」
と思っていました。
もちろん、障害者を差別するつもりはなく、
友人や知人に難病や障害者が居たので、
障害者は手厚く支援されるべきだと思っていましたし、
あくまで自分の事として考えた場合の事です。

元の妻も同じような考えで、
息子の障害がまだ分からない頃、娘を妊娠した折、
彼女の希望で、スリーマーカー(トリプルマーカー)テストを受けました。
検査には僕も同行しました。
検査の結果に問題があればどうするか、それは書かなくても分かっていただけるでしょう。
結果に問題はなく、娘は誕生しました。

息子の障害が、本人にとってどうか、僕には分かりません。
でも僕は、彼に出会えて、ともて幸せです。

息子の障害が分かった後、僕たちは自分の行為に恐怖を感じました。
娘に対して、とても申し訳ない気持ちでした。
これは、今でも、僕の深い深い傷です。


もちろん、以前の私のような考えや、羊水検査を否定するつもりはありません。
このようなことは、延命と同じように、自分の考えを他人に押し付けるものではないからです。

ただ、当時の僕は、障害について、偏見がないつもりでいました。
現実を何も知らないのに。

人間は、実は何も知らないのに、分かった気になっている事があるのです。




病院で祖母を見たとき、
母が決断をする事がなくて、良かったのかも知れないと思いました。
人工呼吸器を付けないという選択をしたとき、
母が何を背負うのか、僕には分かりません。

自分が母の立場になったとき、僕が何を背負うのか、僕には分かりません。


祖母の呼吸停止は、何かを誤飲した事が原因のようです。
施設の方は非常に恐縮していたそうです。
もちろん、不注意での誤飲はあってはならない事です。
しかし、施設のおかげで、母の負担が非常に軽減されていた事は事実です。
僕たちに、施設を責める気持ちは全くありませんでした。
原因や詳しい説明をしていただくつもりもありません。

僕は、医療や介護の現場が、
ぎりぎりの人員で、
それも多くは求められる能力に達していないので、
一部の人間の個人的努力で、かろうじて支えられている事を知っています。
僕たちは、現場の責任を問うよりも先に、
介護や医療のレベルを維持できる、
能力を持ったマンパワーを確保できる資金とシステムを国に求めていくべきだと思っています。


祖母は、本当に奇跡のように、少しだけ自発呼吸を始めました。
ただ、低酸素状態が長く続いたので、意識を取り戻す事はないと思います。

先の事は誰にも分からない。
何が正しいのか誰にも分からない。

ただ、確かな事は、
数回の脳梗塞で体が不自由になった祖父と、認知症の祖母、
二人の介護をしていた母が、
祖母が入院している間は、祖母の介護をしなくて良いという、ささやかな事実です。




※祖母は一ヶ月の入院の後、6月末に、永眠いたしました。

不失正鵠 [Essay]

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神奈川県伊勢原市にある大山の麓は、質の良い篠竹が取れたので、
古くから矢が作られ、現在でも伊勢原には二件の矢師の店があります。
隣町にあった僕の高校の弓道部は、この一軒から弓具を購入していました。

一年生は、秋ごろになると矢を射ることが出来るようになるので、
矢師を訪れ自分の矢を頼みます。
このとき作るのは竹矢でした。

競技用の矢はジュラルミンシャフトが主流なので、
竹矢を作る学校は珍しいのではなかと思います。

竹矢にするのは、、曲がっても治すことが出来るからと先輩に聞かされました。
初心者の頃は、矢が安定せず、
地面や構造物などに当たったときに、折れたり曲がったりします。
このとき竹矢なら、曲がっても矢師のところに持っていけば、治すことが出来ます。

というのは、もっともらしい理由で、
実際は、「ジュラルミンを使うなんてまだ早い」という、部活のヒエラルキーだと思います。

このとき作るのは、お世辞にも質が良いといえない箆(竹のシャフト)と羽の、安い矢ですが、
特記するべきは、「オーダー」だという事です。

矢師の最大の技は、箆を成型する事にあります。
一本一本に高度な手作業の技術が注ぎこまれています。

また、矢を注文するとき、羽を巻く糸は自分の好きな色を選びます。
そして矢師は、一本一本、手で糸を巻きます。

実はこの「オーダー」がとても贅沢なことだという事は、後になって分かりました。

大学や社会人でも、
矢をオーダーできる矢師が近くにある事は稀なので、
矢は、弓具店で、そこに置かれていている既製品を買ってくる人がほとんどなのです。

自分で色を選んだ矢に愛着が沸くのは当然で、
また、その矢を作ってくれる矢師との関係が出来てくるのは当然で、
僕は、大学に行ってもこの矢師で矢を作っていました。
また、矢師の方も、何かと気にかけてくれたようで、
試合の結果などをよく知っていて、
お祝いを言われることはもとより、
県連の先生等が訪れた折に話にでたという、僕の評などを聞かせてくれた事もありました。

二組目、三組目になると、ジュラルミンシャフトになりますが、
今度は羽を選んで作るようになります。

猛禽類の羽が一般的だったのですが、
最近は極端に数が減り、またワシントン条約で取引が禁止される等して、
矢師が持つ在庫だけになり、かなり高価になっています。
中段者でも、ターキーの羽しか使った事がない人がかなりいるのではないでしょうか。

羽は、矢を安定させる事が最も重要な役目なのですが、
見た目の美しさを無視する事はできません。
また、弓を引き絞った状態では、羽が頬につきます。
このとき、羽の感触は、気合や集中力に大きく影響すると思っています。

写真の僕の矢は、犬鷲の尾羽の櫂方です。

鳥の羽をよく見ると、片方が小さく、片方が大きい事に気がつくと思います。
この小さい方が、外側に接する羽で、櫂方と呼ばれています。
反対側を開きといい、櫂方の方が強いと言われています。

羽は、手羽、手羽の外側の風切羽、尾羽、の順に価値が高く、
尾羽は一羽で12枚しかありません。
その尾羽でも、両端の2枚の櫂方は、特に石打と呼ば大変貴重です。
4本の矢には、12枚の羽が必要ですから、石打だと、6羽必要になります。
現在では、どれだけ貴重なものか、想像いただけると思います。

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弓道をやっていたので、弓道に関わる言葉には敏感になります。

「的を射た」という慣用表現がありますが、
これは弓道をしている人間からすると違和感がある言葉です。
弓道では的中を表現する場合、「的を射ぬく」と言う事はあっても「的を射た」とは言いません。
(ちなみに弓を射るという言葉もあまり使いません。「弓を引く」「矢を射る」と言いいます。)
むしろ、「的を得た」の方が表現としては理解できます。

弓道では、的に中たる事を単なる事象ではなく、技術・気力の充実や正しさを表すとしています。
正鵠と言うのは、的の中心の事ですが、
的の中心に矢が当たるのは、気力の充実した正確な射を行った結果だと考えます。
つまり、「正鵠」は的の中心のみならず、射手の内面の正しさを表現する言葉でもあるのです。
だから、「正鵠を得る」と言う言葉は感覚的にしっくり来ます。

儒教では、弓は君子が修めるべき六芸の一つでした。
正鵠の語源となっている礼記では、正も鵠も、的の固有名詞なのですが、
同時に、的となるものの中心も固有名詞でもありました。
つまりは、的とも的の中心とも理解する事が出来るのです。
ただ、礼記では、例えば、不失正鵠のような言葉に置いて、
正鵠を的の中心とする注が付いていたよう記憶しています。

この正鵠という言葉が、日本に入ってきて、的の中心を表す言葉となり、
弓道によって、修めた精神の発揚としての意味も持つようになったのです。

武道に置いて、第一に重要とされる事、それは経験則です。
自分が体験から会得した技術や精神。
特に弓道に置いては、それが、抽象的で時に哲学的表現が多く、
「体験してみなければ分からない」事が多い武術です。

ただ僕は、それが、実はとてもリアリティがある、価値がある事だと思っています。
やはり僕は自分の体験として、正鵠は射るのではなく得るもの、
もっと言えば失わないものだと思います。

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さて、話は変わりますが、来年度から義務教育で、武道が必修となります。
日本の伝統・文化を知る事は大変良い事だと思いますが、心配なのは指導者の質です。
大学の教職課程で、かじった程度の人間が、武道の何が分かり、何を教えられるでしょう。
僕は、自分の体験として、学校体育がスポーツの楽しみを奪ってきたと思っています。
学校教育のなかでは、弓道に出会う事も無かったでしょう。

武道を導入する事の目的が、武道や文化の理解であるのに、
学校以外で、柔道・剣道・相撲以外で、それを学習してきた子供は、全く評価されないでしょう。
また、武道の経験の無い教師には、何をどう理解しているのか、評価する事もできないでしょう。
日本の教育は、いつまで、学校の中にとどまっているのか。
恐らく、武道の事など露ほども理解していない人が考えた、都合の良い建前に幻滅してしまいます。


武道の経験がない先生が教えたら、
相撲なら、八百長も文化でしょ?と言われてしまいそうですね。
柔道なら・・・自粛します(^^;

やりがいを見つける力 [Essay]

先日、大学の弓道部の先輩と飲む機会がありました。
先輩は今、高等養護学校の教員で、学年主任をしています。

先輩の学校の子供たちは、
知的障害ではあってもボーダーと呼ばれるグループに属する子供たち。
教員の一番の仕事は、彼らの就職先を見つける事だと言っていました。

先輩は、事があるごとに、友人・知人に仕事の内容を聞き、子供たちに伝えているそうです。
どんな仕事なのか、どんな苦労があるのか、どんなやりがいがあるのか。


先輩はこれから就職活動をする教え子達に、必ず言う事があるそうです。
「好きな事探しは止めよう」

この言葉は、もちろん、障害者の置かれている現状を表しています。
障害を持っている子供たちは、
自分の好きな仕事、やりたい仕事に就くことができる可能性は、
とても低いことは、想像していただけると思います。


一方、親は、少しでも条件(はっきり言えば給料)が良い所を望むのだそうです。
これも、少し想像していただければ、理解できる事でしょう、
親は順当にいけば、子供より早く死にます。
残される子供が自立して生活していけるだけの賃金を得られる職場を望むのです。


でも先輩の言葉は、多くの障害を持つ親を救う事でしょう。

「もちろんそれは理解できる、そして保護者がそう考える事は間違っていない」

「彼ら(障害者)の将来を考えるとき、第三者の目は必要だ、
だが、親が第三者の目をもっては、子供を守ることができない。
無条件で味方になることも大切だ」


先輩は、自分も、そして他の担任の教師に対しても、
その親の気持ちを理解した上で、
それでも、障害に対する理解のある職場を勧めると言います。

「たとえ給料が安かったり、自分が望んでいない仕事でも、
障害に対する理解がある職場で働いた方が、
長い目で見れば働く喜びを感じられるのではないか。」


社会に属していること、
働いて社会の役に立っていると自覚する事、
それは人間が生きていく上で重要な事だと思います。



これは障害者だけの話ではないと思ったのは、
参加した仲間達の、仕事に対する考えでした。

「好きな仕事をする事が大事だ」と思うもの。

「やりたかった仕事が上手くいかず、
興味が無かった仕事を始めてみたら、今は楽しい」と言う者。

「何が好きか考える事もなく、親の後を継いだ」者。

だけど、共通する事は、今の仕事に「やりがい」を感じている。


自分の仕事のやりがいを挙げてみれば、
やはりPCシステムとはいえ、物を作るという事、出来上がった喜びがあります。
しかし最大のモチベーションは、自分が作ったシステムにユーザーの反応があるという事でした。
私がこの業界に入ってすぐの仕事は、小売店のエンドユーザーに接する仕事だったので、
無理難題やクレームなど苦労もありましたが、
「ありがとう」と言われる事が何より嬉しくて、自分でも驚きました。

元々私は、測量士だったのですが、PCやプログラムへの興味から、この業界に転職しました。
でも、「ものを作ること」やがては、「人と触れ合うこと」がやりがいに変わって行ったのです。

それは取りも直さず、自分が社会や人の役に立っているという喜びでした。

今の仕事は、エンドユーザーの反応もなく、
場当たり的で、意味が無い工数が多く、
ユーザーに対しても、開発方法論とても、とても正しいとは思えません。
ただ、そんな中でも、仕事を続けているのは、
コードを書いているときの、集中した状態が気持ちいいからです。
また、珠に新しいチャレンジがある事、もしくはチャレンジをする事をモチベーションにしています。

好きな仕事だと言えばそうなのかも知れません。
ただ業界に対する絶望は大きく、とても自分では、好きな仕事だとは言えません。
また、この仕事を始めた頃の、コンピューター全般に対する興味は、あまり無くなってきていて、
報酬を得る事が目的になっています。
でも、それだけでは、自分の気持ちを維持できない気がして、
逆に言えば、逃避的に、コードの中に没頭したり、技術に没頭したりしているのでしょう。

けして前向きではありませんが、
生活をしていく為に、労働の対価を得る為に、今の自分を律する方法なのだと思っています。

好きな事
出来る事
やりたい事

仕事はそんな事のせめぎあいでしょうか。

仕事を仕事として割り切ってしまえば、成長できなのかもしれない。
自分の情熱を掛けられるものでなければ、プロにはなれないのかもしれません。
でも、自分の好きな事だけやっていられる訳でもない。
プロならば、どんな仕事でも、一定以上のレベルでこなす事が求められます。

人間というのは、意外と自分の事がよく分かっていないものです。

とりあえずやってみれば、何かが見えてくるのかも知れませんね。
人と接する事が苦手だった私が、エンドユーザーと接する事が喜びになったように。


そして、仕事をする以上は、プロである事を意識していれば、
結果として、嫌いだったり合わなかったりした事をしていても、無駄にはならないのだろうと思います。

仕事に必要なこと、それは、今の仕事にやりがいを見つける力だと、そんな事を感じます。


*
以下は余談です。

私の息子は中学で情緒学級に通っています。
先生のみならず、多くの人が息子のために尽力していただいています。

障害者自立支援法が出来るまで、日本の障害者には、社会に出ても、
十分とは言えませんが、それでも支援の手がありました。
(自立支援法の下での問題はご存知の事と思います。)

おざなりにされてきたのは、一般のセーフティネット。
なおざりにされてきたのは、ボーダーの人たち。

たとえば、知的障害のボーダーに属する子供たちは、
親が障害を認めなければ、何の支援の手も向けれられません。
もし社会に出てから、職場に適合できなければ、
日本には、彼らに対しての支援は無いに等しい。

「なるべく早く、親が認めることだよ」
先輩はしみじみと言っていたが、実はそれが一番難しい事なのです。


孤独 [Essay]

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咳をしても一人 尾崎放哉

鴉啼いてわたしも一人 種田山頭火


嫌なことがあると、僕は、パートナーの事などまるで居ないかのように、
自分の殻の中に閉じこもってしまうらしい。

そんなときの僕は、とても冷たく、まるで死んだ魚のような目をしているのだという。

高校のガールフレンドには、そんな事を言われた事がないので、
多分、大学で一人暮らしをしてからの癖なのかな。

練習が終わって、一人の部屋で、
僕は、そんな目をして、うずくまっていたのだろう。


今はギャラリーになっている、根津裏門坂にあるアパート。
風呂なし、トイレ・流し共同の六畳一間、二階の左側の部屋で、
僕は大学生活をすごした。

辛い事は覚えていない。
思い出すのは笑ってしまうような事ばかりなのに。

友人のこと [Essay]

昨年末、高校の部活の友人とSNSで再会した。

古豪などと呼ばれてはいても、目だった成績の無かった私たちの弓道部は、
私たちが最上級生になった春には、男女とも県内のトップクラスに躍り出た。

彼女は、団体戦のメンバーとしてインターハイに出場している。
もし他の学校にいたとすれば、エースになっていた事も間違いないだろう。
だが、圧倒的な大エースが二人も居たので、常に三番手か四番手。
しかし、私も、女子リーダーも監督も、彼女をメンバー登録から外す事は考えたことが無かった。

彼女と私や女子のエースたちの実力の差は、それほど無かったと思っている。
(弓道の場合、純粋に技術として男女の差はあまりないと思う)
差があるとすれば、自分の事をどう認識しているか、
簡単に言えば自信という言葉になるだろうか、
ほんの少しの、信じられる「コツ」のようなものを掴めたかどうか、かもしれない。

私が彼女を知っているのはあくまで部活の中だけだが、
クールでそのくせ不器用で要領が悪かった。
多分、周りの雰囲気に乗って何かをするのが得意ではないのだと思う。

だから周りと比べて、
手を抜いているように見えたり、
やる気がないように見えたり、
雑に見えてたりしてしまう。

それで、なかなか評価してもらえず、悔しい思いをしたのではないかと思う。

私にもそういうところがあり、
監督に怒られたというか「殴られた」回数に関して、
僕と彼女は双璧だったのではないだろうか。

でも、今なら分かるけれど、監督は歯がゆい思いをしてたんだよきっと。


彼女は今、妻であり母であり中小企業の経営者だ。
家庭と子供と従業員に責任を負い、並の神経では耐えられるとは思えない。
男では絶対無理だし、
亭主が牛丼を食べているのにママ友とランチなどと言っている馬鹿主婦なら一日と持たないだろう。
(不適切な表現をお詫びします)

昔の、つい数十年前の母親はそうだった。
私の母もそうだった。
私は彼女を「日本のお母さん」だと思って尊敬している。


震災は、
親戚の被災、友人の死、業績の悪化、お客さんの窮状、
様々な現実を彼女に突きつけた。

私なら耐え切る自信はない。
おそらく、何もかも投げ出したいような、怒りと不安と絶望と無力感と、
彼女の血を吐くような言葉に、私にはかける言葉が無かった。

経験の伴わない、頭で考えただけの言葉なんて無力だ。

私はかろうじて、「生きている以上は生きていくしかない」というような事を書いたと思う。
自分の語彙と経験の無さをこれほど呪った事はない。
震災の無力感にさいなまれていた私は、さらに、苦しむ友人にかける言葉すらない自分の無力を思い知った。

だけどそれは、私の経験から言えたただ一つの言葉だった。

少しずつ、彼女の言葉は落ち着きを取り戻して、いつもの毒舌が見られるようになった。
私も自分の均衡を取り戻すことができた。


暫くして、ある事をきっかけに、彼女からメッセージをもらう機会があった。
私は驚いた。
なんとも心に染みる言葉たちが、そこに並べられていた。

私は、彼女を通じて、リアリティという言葉を再認識した。

そうだ、リアリティのある言葉しか、人には届かない。

モラルや規範はあまり意味がない。
イデオロギーや正義もあまり意味がない。
人には届くのは、リアリティのある言葉だけだ。

当時、他愛のない掛け合い漫才のような会話しかしていなかった彼女なのに、
不思議な縁があるものだと思う。

それにしても、20年という歳月で、僕と彼女になんと差がついた事のだろう。
それともあの頃、僕が気が付かなかっただけだろうか。

待たせる [Essay]

○○時間、友人たちは僕の苗字を付けてそう呼ぶ。
所謂待ち合わせに遅れること。

聞いた話では、ラテン系の人たちは、
九時待ち合わせというと、九時から九時五十九分までが待ち合わせ時間だと言うそうだが、
(事実ではなく笑い話かもしれない)
僕の待ち合わせ時間は、それと同じような感覚で捉えられている。

先日、大学時代の友人と飲む機会があった。
僕は仕事が終わってから東京まで出掛けるので、二十時くらいになると伝えてあったが、
到着したのは、二十時半だった。

友人は
「ありえない!時間通り!」
と感動していた・・・。

だが、当日来ていただいた先輩さえ、
間に合わなくなるというので、仕事場から直行したというのに、
僕は、一度自宅に帰り、着替えて、シャワーまで浴びていたのだ。
しかも、東京駅でどうしても立ち食いそばが食べたくなって、探していたため、十五分は遅れた・・・

結局僕はまた、新しい笑い話のネタを提供してしまった。


僕は圧倒的に待たせる事が多い。
それには幾つか理由がある。


一つ目は不眠。

僕は寝つきが悪い。
やっと深夜に眠りに付くことができても、翌日の朝に起きられない。
それで、待ち合わせに遅刻をする。

高校や大学の仲間はこのパターンの被害者が多い。
しかし、上級生になれば皆慣れたもの、僕を置いて先に行ってくれる。

問題は下級生の頃。
運動部には、連帯責任という、伝統がある。
同級生たちは皆ハラハラ・ピリピリしながら、僕を待っているわけだ。

しかし、僕はとくれば、全く気にしないように見えるらしい。
実はそんな事はなくて、本人は大変申し訳なく思っているのだが、
遅刻をしたからといって萎縮して、結果か悪い事が一番申し訳ないと思っているので、
なるべく平然と振舞うように努力していたに過ぎない。

寝つきが悪い理由は、考えすぎだと思う、
多分ウダウダと何かを考えていて、脳が興奮状態なのだ。
このような場合は、睡眠導入剤よりも、弱い精神安定剤を服用する事が効果的だ。


二つ目は時間把握のミス。

たとえば、車でAからBに移動する。
移動時間は三十分、余裕をみて四十分前に出発するが、五十分かかってしまった・・・
というような事がしばしば起こった。
移動時間が長ければ長いほど誤差も大きくなる。

これは僕には良く理由が分からない。
多分、給油が必要になったり、どこかに立ち寄ったり、渋滞していたり、と予想外の事が起こるのだろう。

同時に、恐らく、これから述べる第三・第四の理由が大きく絡んでいると思われるが、
この例は、家庭を持っている頃に多く現れ、主な被害者は元妻だった。

僕「○分ぐらいで着くかな」
元妻「どうせ着かないよ」
僕「・・・」

という会話が普通であった。


三つ目は錯誤。

どういうわけか僕は、時間と時間の関連を見失う事がある。
そこで、某狂言師なみの予定を立ててしまう事があるのだ。
当たり前だが僕はヘリコプターを使うような甲斐性はないので、解消できない。

この錯誤の説明は非常に難しく、また一番理解されない事なのだが、
ひどいときは、仕事の予定とプライベートの予定を、同じ日に入れてしまう事がある。
そして、直前まで気がつかない。
それは、カレンダーに書けとか手帳に書けとかいう問題ではないのだ。
実際に書いているのだ、別々のスケジューラーに・・・

本当に、後から思えば、自分が二人いて、別々の予定をしていたとしか思えない事があるのだ。


四つ目はこだわり。

僕は何か気になった事があると、それを済ましてしまわなければ気が済まなくなることがある。

たとえば、釣りに行く前の準備をしていてある道具を持っていきたくなり、それを探して出発が遅れる。
旅行に行く前に、急にデジカメを買い替えたくなり出発に遅れる。

ここまで行くとほとんど病的で、元妻からアスペルガー認定を受けた所以の一つである。
(アスペルガーは障害だが)

ただし、これは実は急にではない。

たとえばデジカメならば、以前から欲しかったものが、
旅行を機会に購入する決断がついたに過ぎない。
それが分かってしまえば、自分をコントロールすることは以外と難しくないのだ。



こんな事をしていては、社会生活に適応できるはずもないので、
社会に出てからは、
眠れなかったら寝ない、もしくは精神安定剤を服用する、
自分の時間計算は信用せず出来るがぎり早く行き、待つ、
準備は前日までに終わらせる、
等の対策をしている。


と、長々と言い訳を続けてきたわけだが、何がいいたいかというと、

ごめんなさい。

ということです。



アスペルガー症候群は知的障害を伴わない自閉症とほぼ同義と言われている。

最近は社会適合に問題があるかないかが重要になっているようだ。
あまりにもコミニュケーション面や社会適合が取り上げれるからだろうか、
専門医師の診察により否定をされても、対人関係が上手くいかないことを、
アスペルガー症候群が原因であると思いたがる人も多くなっているという。

僕の息子は自閉傾向と知的障害があり、
僕はアスペルガー症候群に対して知識もあるつもりだし、偏見はないつもりだ。
また、僕自身が、自閉症スペクトラムに照らし合わせれば、思い当たる事は多い。
しかし、一応の社会生活に適応できている以上、
自分にコミニュケーション障害があるかどうか、
またあるとすればそれが何であるか、
(アスペルガー症候群であるかないか)
に意味はないと思っている。

だけど、障害や疾病に限らず、世の中にはいろいろな人がいる。
僕が、息子の障害が分かってから思うこと、それは、
誰もが楽に生きられるよの中になって欲しいということだ。

その人の持っている属性を理解することは重要な事だ。

だが、人をその属性で理解しようとする事は、人を理解することではない。

だから僕は、人にレッテルを貼る人は好きになれない。


文中でアスペルガーという言葉を使った為に、
このような補足を書かなければならないと思うあたりが、僕の心配性を表してしるのかも知れない。

待つ [Essay]

あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つ我を (詠人不知)

携帯電話が無かった時代。
大学の寮では、呼び出し電話という事がよくあった。
その電話の台数も多くはないので、長くは話せない。

そして寂しさに負けて消滅していく恋もあったさ。

インターハイ出場と国体の選抜に選ばれていた僕は、高校三年の秋まで弓を引いていた。
僕の試合が全て終わったころ、
ガールフレンドは本格的に受験勉強を始めた。

春まで、学校以外で僕達はほとんど会っていない。

僕は、関東大会で準優勝して貰ったメダルを彼女に渡した。
物は何でも良かったのだ。

彼女が勉強に煮詰まった日、一緒に帰って、彼女の家の近くの公園で少し話をした。

クリスマス・イブ、いつもの公園で、プレゼントを交換して、少し話をした。

彼女が志望校に落ちた日、いつもの公園で、少し話をした。

彼女が志望校の二次試験に補欠合格した日、本当にささやかなお祝いをした。

卒業を前に、僕は大学の練習に参加するために、東京で下宿を始めた。

下宿に向かう僕は、何かの用事でお父さんと待ち合わせをしていた彼女と、
一緒に新宿まで向かった。

初めて会った彼女のお父さんは、僕が彼女を支えてくれたと、何度も行ってくれた。
そして、勝栗だからと甘栗をくれた。

大学では、
平日は17時から23時まで練習、土曜日は一日練習、日曜日は試合の毎日だった。
試合に勝ったときだけ、月曜日が休みになる。

彼女は千葉で大学の寮に入った。
寮の電話は取り次ぎだった。
時間も決めれれている。
彼女は、昼間はもちろん授業に出ているから、
僕達が電話を出来るのは、月曜日が休みの場合だけだった。

取次ぎの電話では長話は出来ない。
そもそも、僕も彼女も仕送りで生活していたので、
電話代だけにお金をかけるわけには行かなかった。


夏のオフ。
だが、彼女と会うことは出来なかった。
理由は覚えていない。
どうしても思い出せない。
多分、一週間しかないオフなので、予定が会わなかったのだろう。

僕はまた、練習の毎日に戻った。

ある日彼女から、会いたいと電話があった。
授業を休むから、昼間、僕の練習までの時間でいいから会いたいと。

僕は言った、君は授業を休んだら駄目だと。
いままで僕達が我慢してきた事が無になると。

一度それをしてしまえば、きっと際限が無くなる。
そうなれば、僕も彼女もダメになる。
と、その時の僕は思った。

だが、後から思えば、僕には色々な感情があった様に思う。
今更自分の感情を言うのか、とか。
夏に会えなかった事の仕返しも有ったのかのかもしれない。

リーグ戦に向けて、練習はハードになった。
僕は毎日、道場と下宿の往復で精一杯だった。

連絡の回数も減っていった。

それでも僕は、彼女の事を信じていたと思う。
いや、彼女が思っていてくれると信じる事が、僕の支えだったのだろう。


その年の冬のオフ。
実家に帰ってきたその日に、彼女から別れを告げられた。

そのとき、何と言われたのか、それも、どうしても思い出せない。

クリスマス・イブの夜だった。

それは覚えているのに。


ただ、彼女に渡したメダルを返された事は覚えている。
そのメダルは、今も僕の手元にはなく、実家のどこかにあると思う。
その日以来、僕は、箱を開けてメダルを見た事がない。

彼女のお父さんがくれた甘栗は、冷凍庫の中で、僕の四年間の支えになってくれた。



もちろん肉体関係なんて無かったよ。
こんな話は今の高校生や大学生にとっては子供にしか思えないだろうね。

何でクリスマス・イブだったか覚えているかって?
それは、きっと、彼女にはもう好きな人が居たからさ。

たまたま、僕が実家に帰ってきたのがクリスマス・イブだったのだけど、
それでも、僕と別れるためにこの日を使ってくれたのは、彼女の誠意だろうね。

*****

あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに (大津皇子)

携帯電話が無かった時代。
待ち合わせはスリリングだった。
少しの勘違いで二人は会えない。

何時間も相手を待った事もあるさ。

大学四年の時、年下の彼女ができた。

練習が終わった後、僕は彼女を喫茶店に誘った。

二回目のデートだった。

後輩だった彼女は練習の後の片付けがある。
それに、同期と愚痴を言い合う時間も必要だ。

ゆっくり来ていいよ。

喫茶店の名前だけ告げて、僕は先に道場を出た。
本屋で時間をつぶして、ゆっくり待ち合わせの喫茶店へ。

コーヒー党の僕が、ここでは甘いアイスティーを頼む。

彼女はなかなかやってこなかった。

アイスティーを何杯頼んだだろう。

一時間・・・二時間・・・

不意に店の扉を開けて入って来た彼女は、なんともいえない、安堵の笑顔だった。

まだ居てくれて良かった。

ほっとため息をついた彼女は、近くのよく似た名前の喫茶店で、僕を待っていたのだ。


僕たちの周りには、待つという事がごく普通に存在した。

いつの間にか、僕たちは欲張りになった。

メールはすぐに返して欲しい。
電話はすぐにでて欲しい。

「待つ」ということは「信じる」ということ。

相手が必ずやってくると信じなければ待てない。

相手が自分の事を想っていると信じなければ待てない。

僕たちは、「待つ」という強さを、知っている最後の世代かもしれないね。

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Wherever you go

Whatever you do

I will be right here waiting for you

Whatever it takes

Or how my heart breaks

I will be right here waiting for you


Richard Marx / Right Here Waiting



LOVE 井上昌己 [Essay]

街を抜ける交差点 行き交う人の群れ

冷めたアスファルトが今日も 心を 痛がらせる

井上昌己 / LOVE / 1992年


井上昌己さんを知ったのは大学生の頃、
当時は女性ボーカリストのデビューが続いていたので、流行だったのだろう。
私にとっても、何人かの女性歌手の中の一人ではあったが、
同年代だったこともあり、
「どんなふうにこの夜は終わるのだろう」や「腕の中のNAVIGATION」は、
ちょとドキドキしながら聴いていた。


私にとってこの曲は、渋谷の風景。
田舎のSEが都会に出てきて、初めてのプロジェクトのオフィスが渋谷だった。

朝はほとんど藤沢という横浜の外れの駅から電車に乗り、
横浜駅から東横線の満員電車に自分を押し込む。
夜は渋谷駅から、横浜駅の終電にギリギリ間に合う電車に飛び乗る。
そんな毎日。

子供たちの起きている姿を見ることは出来なかった。

何より、満員電車が苦痛だった。

それまで田舎で在宅勤務だったものが、
いきなり、
都会でも一二を争う乗車率の路線で、通勤を始めたのだ。

渋谷駅前の交差点で、ふとこの曲を思い出した。

十年前のアルバムの一曲。
だが、ずっといい歌だと思ってはいた。
しかしこの時は、まさに身につまされる思いだった。

SEでなくても、こんな生活をしている人は少なくないと思う。
私も、自分ががんばる事が、家族の為だと思っていた。
この時は。

いや、それだけではない。
田舎SEだった自分が、大きな仕事で通用している自負心。
誰でも知っているような有名企業の仕事をしている優越感。
そんなつまらないものが私を支えていた事も事実だ。

今から思えば、些細な代償のために、
何でこんな事をしなければならなかったのかと思う。

その仕事が「終わる為」だった事も今となっては皮肉な話だ。

数年後、家族の為という理由を無くし、
元々人が多い場所が苦手だった私は、満員電車に乗れなくなった。


We are the same Feel our love

We are the same Feel our love

Beyond the end We need love forever

You're not alone in the world of our love

井上昌己 / LOVE / 1992年


今は、歩いて通う事ができる場所に仕事を見つけた。
それでも、時々、交差点で、この歌を思い出す。


稲の花 [Essay]

稲に花が咲く事を知らない人は、意外に多いようだ。
僕も実際に見るまでは知らなかった。


大学で、またしても弓に全力を注いでしまった僕は、
いざ卒業が決まっても、父を納得させるだけの目標を見出せなかった。
当時、バブルがはじけ、就職は厳しくなっていたが、
その後の氷河期といわれるほどではなく、企業を選ばなければ、就職できたと思う。
しかし、父は納得しなかった。
「お前のような我慢ができない、何の取り柄のない人間が、
事務職で食べて行けるわけが無い。手に職を付けておけ。」

父の言う事務職とは俗にいう総合職の事だ。

それに反論するほどの確信もなかった僕は、
一年で測量士補の資格が取れるというだけで、測量学校に通うことにした。

何で親の言うとおりにするのか、不思議に思うかも知れない。
当時の僕には、高校・大学と好きなことをさせてもらった、
義理というか恩義というか、とにかく、引け目を感じていたのだ。


測量学校は俗に言う専門学校なのだが、
入ってみると、大学(文系)なんか比べ物にならないくらい厳しくて驚いた。

まず、休めない。
大学だと(繰り返すが文系の場合)、
だいたい出席日数の下限が決まっているから、この授業はあと何日休める・・・
なんて計算をしながら・・・単位を落としたわけだが。
専門学校では一日がいいところ、二日休むと補講の可能性。
しかも、毎日のように課題がでるので、そもそも休むと置いていかれる。
実習を休んでしまうと、次回訳が分からない事になる。
課題の提出期限も厳しい。
あまり遅くなると、単位が取れなくなる、それはすなわち、免許がもらえない。

測量科は国家資格の取得ができるため、特にカリキュラムは厳かったらしいが、
工業・土木系の学科はどこもそんなものらしい。

僕の学科は、一年だったため、実にいろいろな経歴の人がいた。
年齢は38から18まで。
多くは、測量会社に入り、免許を取るために入学してきた人たちで、
会社が費用をだして、なかには、給与を貰いながら通う人も多く、真剣さが違う。
次に、実家が測量会社である人。
そして、以外と多いのは実家が調査士である人たち。
調査士は国家試験に受からない限り開業できないが、
測量士を持っていると、測量分野の試験が免除される。
そのため、大学を出た後に、入ってくる人が多く、この人たちは僕と同年代だった。

この一年は、僕の人生でおそらく一番「学問的に」勉強した時期だ。

ご存知の通り、測量の基本は三角関数である。
高校の数学ですら赤点だった僕が、
三角関数や最小二乗法を理解しなければならないのだから、必死になる。

さらに実習。
荒川の河川敷で、基準点測量や水準点測量・地形測量の実習がほぼ毎日行われた。

実際は、これらの実習は、ほとんどの測量会社では役にたたない。
現場で実際に使われるのは、
多角測量(角度と距離で座標を求める)であるし、
現場の水準測量で、水平器付きの標尺を使うこともまずないだろう。

夏休み、この学校恒例の測量合宿が、新潟県の六日町で行われた。
猛暑の中を、
新潟の盆地を基準点を探して歩き回る。
5キロ近い水準測量。
スキー場の平面測量。

疲れがピークに達していた頃だった、
朝早く出発して、歩いていてた道の横にある田んぼで、
稲穂から白い細いものが生えているのに気がついた。
六日町といえば、南魚沼郡、米所だ。

僕が脚を止めると、後ろを歩いていた「最年長の同級生」が稲の花だと教えてくれた。

彼は、国立大学を卒業後、環境調査の会社に入って、国のアセスメントの仕事をしていたらしい。
だが、そのあまりにもいい加減な仕事(はっきりいうと改ざんに近い事が行われていたという)に嫌気がさし、
小さな測量会社に就職して、免許を取るために来ていた。
成績はダントツによかった。
彼には、良く数学を教わっていた。

僕はそのとき、なんだかとてもすがすがしい気分になった事を覚えている。
稲の花には花びらがない。私が見たものは、稲の雄蕊だった。



合宿が終わると、卒業を控えて、課題の仕上げに入る。

冬には、家に帰っても毎日深夜まで、卒業課題の地図を製図をする日々が続いた。

皆が得意な事を教えあう。
脱落者を出すことなく、全員で卒業しよう。
皆そう思っていた。

そして、僕たちのクラスは、一人の脱落者を出すことなく、全員が卒業した。
さすがに、珍しい事だったらしい。

結局、測量は僕の一生の仕事にはならなかった。
だが、この一年の経験は、得がたいものだったと思う。

そして、今なら、父の言っていた事が理解できる。
僕は、平凡でなんの取り柄もない。
だけど一つの会社で勤め上げるほどの忍耐もない。
だから、手に職が必要だったのだと。
技術は自分の努力で取得する事ができるのだ。

たいした技術ではないが、手に職があるおかげで、随分助かった。


あの夏以来、稲の花を見た事はない、だが、夏が来るたびに、あの花を思い出す。