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走水低砲台 [城巡り]

横須賀美術館から歩いて15分ほど、走水低砲台

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土・日・祝のみ公開
公園に自転車とミニバイク置き場があるが駐車場はない。
バイクなら歩道を押して公園の入り口に止める事が可能かも。

走水「低」砲台というのは、走水「高」砲台があるからで、
走水高砲台は公開されていない。

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見学コースが整備されている

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兵舎や弾薬庫も見学可能

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三軒家砲台 [城巡り]

横須賀美術館の裏にある三軒家砲台

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掩体の内側に迷彩されているようです。

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山中城 第4弾クラウドファンディング寄附者限定イベント [城巡り]

山中城の第4弾クラウドファンディング寄附者限定イベントに参加してきました。

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記名の五色の旗を申し込んだはずなのですが、現地になかったのが残念でした。
※その後、場所を調べていただき、後日確認しました。

学芸員による案内では、定説と異なる、渡辺勘兵衛の攻城ルート。
本丸東側に出丸と馬出しがあったという芹川さんの説、とても説得力がありました。(実際に堀跡が発掘されている)

山中新田の住宅地の発掘調査の成果から、
現在の駐車場付近に馬出しがあり、
三の丸、二の丸・本丸と続いていたとする説。
2017年の発掘調査で公表されてました。

島市埋蔵文化財発掘調査報告ⅩⅩⅠ

山中新田の住宅地に遺構があったのは、
もっと注目されてもいいと思う。

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三島駅前の坂東の鰻重と白焼き
タレは甘さ控え目
白焼きは伊豆のワサビ添え


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文殊山城 [城巡り]

文殊山城
年月日:2019/01/12
見学時間:08:30-08:50
所要時間:20分

新城ICから35分くらい、林道があり、主郭下まで車で行くことができます。


林道の映像です。
全線舗装されていて、特別狭隘なところはありません。
何箇所かすれ違い可能な場所もあります。

縄張り自体は単純で、
主郭とそれを囲む横堀、虎口には馬出しがあったようです。

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主郭下の駐車場、
現地案内図や資料によると、
郭というわけではなく、駐車場として整地されているようです。

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主郭北側の土塁

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櫓が再現されています。

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主郭虎口横の切岸
このあたりは馬出形状のようです。

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主郭の下は横堀が巡らせてあるようですが、
腰郭のように見える見える部分もあります。


参考資料
愛知の山城ベスト50を歩く


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小倉山城 [城巡り]

小倉山城
年月日:2018/11/22
見学時間:14:30-15:45
所要時間:15分

高山城主だった金森長近が関ヶ原の功で加増された上有知領有の為に築いた城です。
木曽川の水運の為に上有知湊を整備、
築城と共に作られた城下町は和紙で潤い、
重要伝統的建造物群保存地区となっています。

文化会館横の交差点から坂道を上ると、二の丸跡の駐車場です。
二の丸前の図書館が三の丸跡
本丸には池などが作られています。

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本丸の櫓風建物、本丸から見るとシャッターがあり倉庫になっているようです。

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虎口
小さな城ですが、立派な石垣です。

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本丸下の石垣にある折れ
直線的な石垣ですが、折れで横矢を掛けているのは、飾りではないと思います。
飛騨の松倉城主郭の折れを連想させます。

参考資料
岐阜の山城ベスト50を歩く
小倉山城 美濃市サイト

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西股総生氏ガイドツアー 茅ヶ崎城・小机城 [城巡り]

クラブツーリズムの
ナワバリスト 西股総生氏がご案内 関東の要塞連郭式平山城 「小机城跡」「茅ヶ崎城跡」に参加して来ました。

西股氏と言えば、昨年の大河ドラマ「真田丸」の軍事監修として有名になりましたが、
「戦国の軍隊」「土の城指南」など軍事的な視点から歴史や城を解説した著書に感銘を受けました。


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10時にセンター南駅に集合

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こんなレシーバーを渡されるので、少し離れても解説を聞くことができます。
茅ヶ崎城と小机城の縄張り図をコピーして持参しましたが、資料として配られました。

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茅ヶ崎城に移動

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開発される前は西郭の西側は駅方面まで台地が続いていたとのこと。
丘の先端だったのですね。
後で公園内に古い航空写真が掲示されていて、
西郭から家を挟んで台地が続いていました。
この家の場所は堀切なのか造成されたのか興味のあることろです。

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「西郭の下に空堀があるよ」
前回来たときは腰郭だと思っていました。

東郭と中郭の空堀に土橋があります。
「発掘調査の結果盛土だと分かっているので、後の改変の可能性が高いのではないか」
「なぜなら、土橋を作るなら削り残すはずで、
一度削った堀切に盛土をするような非効率的な事はしない。」
なるほど。

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「中郭が本丸だと思います。東郭の方が高いけど、狭すぎる」

「中郭東側に堀が見つかっています。これが馬出しになっているんですね。」

確かに、中郭の南側に入口がありますが、
その付近から北に向って一段低くなっている部分があります。

私は、最高地点である東郭を本丸だと考えていましたが、
中郭を区切って馬出しを作っているとすると、
中郭が最重要だと考えていたようです。
東郭から中郭が丸見えなのが問題だと思いますが、
その対応として馬出しを設けて防御しようとしたのでしょう。



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「中郭の南側の土塁が北側に比べて高いのは、
南側は丘を削り出して、北側は盛土しているからです。」

「この城の縄張りは、それぞれの郭が各自でがんばって防御するというものだと思います」
「最終的には秀吉の小田原攻めの前に現在の形に改修されたのではないでしょうか」

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桜が満開でした。

ここで昼食の為に一時解散、小机駅で集合となりますが、
ほとんどの人はセンター南で昼食となったようです。
センター南からの電車の時刻も何便か指定されました。
私たちは弁当を持参したので茅ヶ崎城の中郭で昼食にしました。

センター南では、一行と同じ電車に乗ったのですが、
新横浜の乗り換えに間に合わず、数人で一本遅れての小机到着。

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小机城は初めて訪れます。


「小机城は丘の先端に位置していて、周りは鶴見川の氾濫原でした」
今でも鶴見川は少し雨が降ると増水して、新横浜公園は簡単に浸水しますからね。
流域に住んでいると親身な話です。

「小机城は長尾景春の乱で大田道灌に攻められましたが、そのころの小机城は規模も小さく、
現在の小机城はやはり北条氏の改修によるものだと思われます。」

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空堀を歩いて西側の郭へ


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西郭櫓台前
「江戸時代の絵図には西側にもう一つ櫓台が書かれていました。」

その櫓台の東、東郭の南東が当時のアプローチ。

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「関東の土の城は郭を土塁で囲んでいます。
後世に崩されてても、よく見ると土塁の基礎が残っていることがあります。
土塁の基礎は硬く突き固められているので簡単には崩せないから残るんですね。
ここも土塁基礎部分だと思われます。」

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「空堀は直角に交差させるずに必ず折り曲げています。
さらに段差を付けて、見通しと行動を抑制しています。」

「これだけの空堀を築いたと言う事は、逆に言えばこれだけしなければ守れなかった。
秀吉の小田原攻めで侍は小田原に詰めてしまったので、少ない人数で農民兵でも守る工夫でしょう」

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東郭虎口
「土橋は櫓台の真下を通らねばならず。
空堀の先が馬出になっていますが、そこを占拠しても櫓台から狙い撃ちされて拠点にならない。
北条流のえげつない縄張りです。」


中郭
「中途半端な感じがする中郭ですが、
南側の見通しを考えるとどうしてもここに拠点を置きたかったのでしょうね。」

西側、富士見台
「自然地形のままなので城域ではない、あっても物見くらいでしょう。
逆に言えば、ここまでを城域にできるほどの人数はいなかった。
だから捨てたのでしょう。」


公園化された城なので体力的にはたいした事はないだろうと思っていましたが、
詳しく見て歩くとなかなか疲れました。
現地で解説を聞くことができてとても貴重な体験でした。



苗木城 [城巡り]

苗木城
年月日:2017/01/07
見学時間:8:30-10:00
所要時間:80分
資料館:10分
資料館:320円

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苗木城は木曽川に面する山の上にあります。

選地について疑問が湧きました。
写真でみるように、木曽川に面した南側は、川に面した断崖で要害と言えますが、
北側の登城路はとても急峻と言えるものではなく、
大矢倉と二の丸と本丸の間の石垣が積まれた崖は確かに堅固だと思いますが、
それまでの仕掛けがあまりないという印象です。
南側、つまり木曽川に防御の重点を置いた城という印象を受けます。

苗木城は、狭い本丸の有効利用の為に掛け造り(清水の舞台が有名)でした。
しかし、掛け造りは崖に張り出した床を崖下まで届く柱で支えているので、
崖下から柱を切られたり、火をかけられたら建物が崩壊するという致命的な欠陥があります。
掛け造りは苗木藩成立後の物で、
北側自体が苗木藩成立後に、土地を広げる為に本丸と三の丸の間の堀切を埋めたとする説があるで、
登城路を緩やかにした可能性があるかもしれません。


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苗木遠山資料館の駐車場に車をとめました。
坂をもう少し上るともう一つ駐車場があります。

苗木城は建物の壁が赤土だったとされていますが、
資料館はその赤壁を再現しています。

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竹門の虎口
右は布積みですが、左は落積みのようにも見えますね

こちら側は城下に面した登城口です。

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足軽長屋から天守台を望む

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天然の巨石を取り込んで作られた石垣が苗木城の特徴です。

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二の丸入口の空堀
右へ行くと二の丸、左は三の丸に通じます。
二の丸は御殿がありましたが、現在は修復工事中で立ち入り禁止です。

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三の丸前のカーブ

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三の丸入口、風吹門跡

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左側に張り出しているのは大矢倉
左に行くと池と北門です

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有名な大矢倉です
風吹門から一層の櫓を挟んで大矢倉に続いていました。

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大矢倉

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大矢倉から見た池

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三の丸駈門跡
枡形のように見えますが、それにしては石垣が低いと思っていたら、
この石垣の上に建物があり、石垣の開口部を門をしていたようです。
ここから、四十八曲という九十九折の道が木曽川に面する大手門まで続きます。

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も少し降りてみました。

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脇道を入ると平場があり、三の丸下の石垣を見る事が出来ます。

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三の丸と本丸・二の丸を分ける大門跡
三の丸は苗木藩となった江戸時代に堀切を埋めて整備されたと言われています。

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大門から坂を上ると本丸、下ると二の丸です

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綿蔵門跡


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折り返して坂下門跡

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菱櫓門跡を抜けてまた折り返して本丸です

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菱櫓門あとから大矢倉

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本丸口門と千石井戸

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美しい石垣の勾配

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本丸下の的場
奥に見える小山はなんだろうと思っていたら垜だそうです。
少し低いかな。

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具足・武器蔵跡を通り折り返すと玄関口門跡

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天守台は本丸より一段高くなっていて、
玄関跡に階段があります。

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天守台

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柱跡を利用

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城山大橋
中津川有料道路

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天守

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天守

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本丸馬洗岩

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大岩

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笠置矢倉跡

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仕切門

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帯郭

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物見台

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須磨明石岩

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八大龍王

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清水門

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不明門

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風吹門

参考資料
岐阜の山城ベスト50を歩く
苗木城パンフレット

横須賀城 [城巡り]

横須賀城
年月日:2016/04/30
見学時間:15:15-14:40
所要時間:35分

高天神城から横須賀城までは車で20分ほど
途中「まるか」のラーメンを食べようと寄ってみましたが、準備中でした。
仕方なく近くのコンビニで昼食。
横須賀城の東側には大須賀の町があり、旧道沿いには古い建物もあります。
コンビニはありますが、食堂のようなものは少ないようです。

横須賀城の駐車場は軽バンや軽トラで一杯
観光客ではないようですが・・・
車を止めていると、ゲートボールの荷物を持った人たちが車に乗って出て行きました。
ゲートボール場があるようです。

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駐車場の前の案内版
道路を挟んで反対側が二の丸跡ですが、グランドになっていました。

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西の丸の斜面
この辺りは腰曲輪になるのでしょうか。

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西の丸

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本丸天守台

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本丸南側石垣
大井川の玉石を使った石垣が復元されています。
緩いカーブを組み合わせた石垣なのですが、
ここは角の処理がされています。

廃城となった横須賀城の石垣は、磐田市の旧見付学校に使われたそうです。


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北の丸から見た本丸斜面
ここは石垣ではなかったのだろうか。

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北の丸
天守台の北側になります。
ゲートボール場になってます。

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発掘調査で出てきた礎石が復元されています。

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松尾山
北側の防御拠点のようです。

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松尾山礎石
多門櫓があったようです。

松尾山の北側には大きな空堀があったようなのですが、
事前の勉強で見落としていて、見逃してしまいました。

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本丸南側
1つ目の升型
中央辺りに見える古墳の石室の入り口のような物は何でしょう。
発掘された遺構が見られるようになっているのでしょうか。

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本丸南側
2つ目の升型

築城当時は南側は海に面していました。

横須賀城は、高天神城攻略の拠点として築かれましたが、
北の防御は松尾山と大空堀程度、天守も本丸北隅にあり、
一方、海に面した南側は、石垣に水堀、二重の升型と、
高天神城方面よりも、海方面に厚く守りを固めています。


参考資料
静岡の山城ベスト50を歩く サンライズ出版
高天神城・横須賀城パンフレット

高天神城 [城巡り]

高天神城
年月日:2016/04/30
見学時間:13:10-14:20
所要時間:1時間10分


小田和正のコンサートは18時からなので、
ホテルは13時チェックアウトのプランにしていました。
13時にホテルをチェックアウトして高天神城に向います。

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掛川城(大手門駐車場)から高天神城搦手口までは車で20分弱

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比高100mほどの山です


以前は、武田信玄が囲んで落とせなかった城と言われてきましたが、
鴨川達夫氏により資料の比定の誤りが指摘され、
現在では事実ではなかったという説が有力のようです。


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搦手門跡

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石段を登ります。

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搦め手門から5分ほどで、東の峰の西の峰を繋ぐ鐘曲輪です。

まずは東の峰から見て回ります。

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本丸虎口

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本丸石碑

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本丸土塁

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的場曲輪

大河内石窟から本丸を見上げると切り立った崖、
三の丸まで続く谷は断崖です。

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御前曲輪


顔出し看板は小笠原長忠とありますが、当時の文書では氏助、後に信興です。
高天神城に武田勝頼を迎え籠城しました。
信興の父氏興は今川に属していましたが、
武田信玄の駿河侵攻で今川氏親が掛川城に逃れると、
徳川家康に通じて掛川城を攻めています。

勝頼が高天神城を囲んでも、
天竜川沿いの二俣城を押さえられて浜松城に圧力をかけられていた家康は単独で援軍を出すことができず、
織田信長に援軍を求めました。
しかし、信長の援軍が到着する前に氏助は勝頼に下りました。

信長はよほど腹に据えかねたのでしょうか、
信長公記では、氏助が内通し落城とあります。
また、武田滅亡後に頼った北条氏政に信長の圧力で打たれたとか、
北条滅亡後に家康によって殺されたという逸話もあるので、
織田・徳川方としては一貫して裏切り者としているようです。
ただ、援軍のない籠城戦の場合、降伏する事はよくありました。
もちろん自らの陣営に立ち退く事もありますが、
援軍を出さない主家を見限って攻め手側に付く例も少なくありません。

勝頼が後に長篠城を囲んだように、
高天神上を攻めたのも家康に決戦を強いるためだったのでしょう。
しかし、兵力差と地理を考えれば仕方がない事で、
であればなお、氏助が武田に下った事は責められないような気がします。


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御前曲輪から掛川方面望む

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三の丸


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追手方面から東の峰と西の峰に向う分岐
ここから西の峰に向います。

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砂礫の壁面で崩れやすく、登攀が難しい事がわかります。
眼下に貯水池が見えました。

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切通し、虎口でしょうか

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鐘曲輪から井戸曲輪
ここから西の峰です

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西の丸


説明にある岡部元信(真幸)は、今川の武将でした。
桶狭間で今川義元が打たれ、今川軍が総崩れとなるなか、
鳴海城を守った元信は抵抗を続け、開城を条件に義元の首を取り返したと伝わります。
信玄の駿河侵攻で武田に属し、高天神城の守備についていたました。

長篠の戦いの勝利で勝頼に大損害を与えた家康は、
二俣城を奪還して天竜川沿い(信濃方面)の安全を確保すると、
諏訪原城を落とし大井川を抑え、
横須賀城と付城を取り立てて高天神城を孤立させました。
上杉謙信の跡目争いである御館の乱で、一度は景虎に付きながら景勝と結んだ勝頼は、
景虎の実家北条氏との同盟が破綻し、駿河に圧力を受けてしまい、
高天神城に援軍を出すことができませんでした。
半年近くの籠城の後、食糧が欠乏し後がなくなった元信は城を出て徳川方に突入し、
殆どが打たれました。
援軍を出せなかった勝頼は開城を許可したと言いますが、
信長は降伏を許しませんでした。
勝頼の信頼の失墜と抵抗したものへの見せしめの意味があったのでしょう。
その後、勝頼の叔父信廉は戦わず撤退、木曾義昌や穴山信君のような一門までもが離反しています。

武田家は重臣や信濃・上野・駿河の国衆の集合という中世の体制を残していました。
おそらく勝頼は、信玄以来の重臣を遠ざける事で権力の集中を図ったのでしょう。
しかし、家康と家臣団のような信頼と忠誠の関係を作ることはできず、
信長家中のような、実力と利益で繋がった集権体制を作る事もできませんでした。
元亀の織田包囲網を乗り切った信長や、
多くの城を見殺しにした上での三方ヶ原の敗戦でも離反を出さなかった家康との違いは興味深い物があります。


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西の丸高天神社(西の峰最高点)から馬場平にに向う尾根の堀切

多くの縄張り図では、
西の丸から南側に尾根が続き物見のような物があります。
井戸曲輪の南側(トイレがある)を登り物置の裏を見たり、
高天神社社務所の裏に回ったりしたのですが、確認できませんでした。
帰宅後に色々な縄張り図を調べたところ、どうも堀切から南側に回った方がよいようです

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馬場平

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馬場平から見た遠州灘

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甚五郎抜け道

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二の丸

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二の丸虎口

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二の丸と堂尾曲輪の間の堀切

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堂尾曲輪の西側の空堀
左側が堂尾曲輪

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空堀の先端あたり
右側が井楼曲輪

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井楼曲輪

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井楼曲輪と堂尾曲輪の間の堀切

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堂尾曲輪

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二の丸の腰曲輪と堂尾曲輪の間の堀切

断崖に守られた本丸に長い防衛線を作り、本丸・三の丸二つの拠点で追手を守る、
比較的単純な東の峰に比べて、
西の峰は西側に空堀を設け、堀切を入れ、西側の谷に対する防御が厚くなっています。


参考資料
静岡の山城ベスト50を歩く サンライズ出版
戦国の城 学研
高天神城・横須賀城パンフレット


掛川城 [城巡り]

掛川城
年月日:2016/04/30
見学時間:9:10-10:00
所要時間:50分
入場料:410円 天主、御殿

エコパアリーナの小田和正コンサートを見るために前日夜に掛川入り一泊しました。
宿泊先はドーミーイン
天然温泉、ダブルルームは広くはありませんが、
シモンズベッドで良く眠ることができました。
朝食は、種類の豊富なバイキング、味も悪くありません。
食堂は広くありませんが、テレビで混雑状況がわかります。
二人朝食付きで1万2千円ならお得です。

コンサートまで掛川周辺の城を巡る予定。
朝食後に掛川城に向いました。
宿泊したドーミーインから掛川城大手門までは5分とかかりません。

掛川の町は二車線と歩道を持つ広い道路が碁盤の目に通り、
街中にゴミひとつないような、整然として綺麗な町でした。
ただこの道路は城下町としては不自然で、近代に都市計画された事が伺えます。
実際に掛川城の遺構と言えるような物は少なく、復元整備されているようです。
80年代の本丸周辺写真を見たことがありますが、
コンクリートの階段や新しい石積みががあり、かなりの改変を受けていた事が想像されます。

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復元された大手門
掛川城の中枢に対して逆川の対岸にあり、
絵図だと大手門の南にも逆川から引き込まれた堀が存在します。

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大手門番屋
幕末頃の建物です

今川氏真は、武田信玄の駿河侵攻に耐えきれず、駿府を捨てて掛川城に逃れました。
掛川城を守る朝比奈泰朝は、
遠江制圧をもくろむ徳川家康を相手に半年あまり持ちこたえました。
氏真の舅である北条氏康は、援軍を出し清水付近で武田と対峙しますが戦線は膠着。
信玄が遠江を伺う構えをみせるなか、
徳川・今川・北条で和睦が成立し、掛川城を明け渡した氏真は北条を頼りました。

家康にしてみれば、
泰朝の頑強な抵抗で損害が大きくなれば、
遠江への武田の介入を許す事になりかねず、
武田・北条を牽制しながらの掛川城攻略はなかなか神経を使うものだったでしょう。

その後、掛川周辺は武田・徳川の激戦地となりますが、
信玄は、天竜川を南下し家康の居た浜松城に向ったので掛川城は戦場になりませんでした。
諏訪原城・小山城と取り立て高天神城を落とした勝頼も掛川城までは到達できませんでした。


大手門から天守までは逆川沿いの三の丸跡付近を歩き5分ほど

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復元された本丸四脚門をくぐり本丸に入ります

家康の関東移封後に山内一豊によって拡張され、このとき天守が建てられます。

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一豊の建てた天守は地震により倒壊し、1621年に再建されました。
その絵図をもとに木造復元されています。

天守は本丸より一段高いところにあります。
腰曲輪から見上げた天守曲輪脇の石垣は、見るからに新しい工法で違和感があり残念です。

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重要文化財の三の丸から移築された太鼓櫓

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天守と御殿の入場券は本丸で購入します。

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重要文化財の二の丸御殿

一豊が高知に移ると、徳川譜代大名が短期で交代し、
大田道灌の子孫太田氏が入り七代を数え明治を迎えました。
二の丸御殿は大田氏が藩主の時代に建てられてたものです。

御殿が残るのは二条城・川越城・高知城と掛川城の四か所
二条城は将軍の城、川越城は幕府要職の居城、高知城は24万石の大藩、
いずれもが大規模なのにくらべ掛川は5万石、
他に比べ小規模で質素な御殿です。

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大書院
藩主の謁見の場です


参考資料
静岡の山城ベスト50を歩く サンライズ出版
掛川城パンフレット