不失正鵠 [Essay]
神奈川県伊勢原市にある大山の麓は、質の良い篠竹が取れたので、
古くから矢が作られ、現在でも伊勢原には二件の矢師の店があります。
隣町にあった僕の高校の弓道部は、この一軒から弓具を購入していました。
一年生は、秋ごろになると矢を射ることが出来るようになるので、
矢師を訪れ自分の矢を頼みます。
このとき作るのは竹矢でした。
競技用の矢はジュラルミンシャフトが主流なので、
竹矢を作る学校は珍しいのではなかと思います。
竹矢にするのは、、曲がっても治すことが出来るからと先輩に聞かされました。
初心者の頃は、矢が安定せず、
地面や構造物などに当たったときに、折れたり曲がったりします。
このとき竹矢なら、曲がっても矢師のところに持っていけば、治すことが出来ます。
というのは、もっともらしい理由で、
実際は、「ジュラルミンを使うなんてまだ早い」という、部活のヒエラルキーだと思います。
このとき作るのは、お世辞にも質が良いといえない箆(竹のシャフト)と羽の、安い矢ですが、
特記するべきは、「オーダー」だという事です。
矢師の最大の技は、箆を成型する事にあります。
一本一本に高度な手作業の技術が注ぎこまれています。
また、矢を注文するとき、羽を巻く糸は自分の好きな色を選びます。
そして矢師は、一本一本、手で糸を巻きます。
実はこの「オーダー」がとても贅沢なことだという事は、後になって分かりました。
大学や社会人でも、
矢をオーダーできる矢師が近くにある事は稀なので、
矢は、弓具店で、そこに置かれていている既製品を買ってくる人がほとんどなのです。
自分で色を選んだ矢に愛着が沸くのは当然で、
また、その矢を作ってくれる矢師との関係が出来てくるのは当然で、
僕は、大学に行ってもこの矢師で矢を作っていました。
また、矢師の方も、何かと気にかけてくれたようで、
試合の結果などをよく知っていて、
お祝いを言われることはもとより、
県連の先生等が訪れた折に話にでたという、僕の評などを聞かせてくれた事もありました。
二組目、三組目になると、ジュラルミンシャフトになりますが、
今度は羽を選んで作るようになります。
猛禽類の羽が一般的だったのですが、
最近は極端に数が減り、またワシントン条約で取引が禁止される等して、
矢師が持つ在庫だけになり、かなり高価になっています。
中段者でも、ターキーの羽しか使った事がない人がかなりいるのではないでしょうか。
羽は、矢を安定させる事が最も重要な役目なのですが、
見た目の美しさを無視する事はできません。
また、弓を引き絞った状態では、羽が頬につきます。
このとき、羽の感触は、気合や集中力に大きく影響すると思っています。
写真の僕の矢は、犬鷲の尾羽の櫂方です。
鳥の羽をよく見ると、片方が小さく、片方が大きい事に気がつくと思います。
この小さい方が、外側に接する羽で、櫂方と呼ばれています。
反対側を開きといい、櫂方の方が強いと言われています。
羽は、手羽、手羽の外側の風切羽、尾羽、の順に価値が高く、
尾羽は一羽で12枚しかありません。
その尾羽でも、両端の2枚の櫂方は、特に石打と呼ば大変貴重です。
4本の矢には、12枚の羽が必要ですから、石打だと、6羽必要になります。
現在では、どれだけ貴重なものか、想像いただけると思います。
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弓道をやっていたので、弓道に関わる言葉には敏感になります。
「的を射た」という慣用表現がありますが、
これは弓道をしている人間からすると違和感がある言葉です。
弓道では的中を表現する場合、「的を射ぬく」と言う事はあっても「的を射た」とは言いません。
(ちなみに弓を射るという言葉もあまり使いません。「弓を引く」「矢を射る」と言いいます。)
むしろ、「的を得た」の方が表現としては理解できます。
弓道では、的に中たる事を単なる事象ではなく、技術・気力の充実や正しさを表すとしています。
正鵠と言うのは、的の中心の事ですが、
的の中心に矢が当たるのは、気力の充実した正確な射を行った結果だと考えます。
つまり、「正鵠」は的の中心のみならず、射手の内面の正しさを表現する言葉でもあるのです。
だから、「正鵠を得る」と言う言葉は感覚的にしっくり来ます。
儒教では、弓は君子が修めるべき六芸の一つでした。
正鵠の語源となっている礼記では、正も鵠も、的の固有名詞なのですが、
同時に、的となるものの中心も固有名詞でもありました。
つまりは、的とも的の中心とも理解する事が出来るのです。
ただ、礼記では、例えば、不失正鵠のような言葉に置いて、
正鵠を的の中心とする注が付いていたよう記憶しています。
この正鵠という言葉が、日本に入ってきて、的の中心を表す言葉となり、
弓道によって、修めた精神の発揚としての意味も持つようになったのです。
武道に置いて、第一に重要とされる事、それは経験則です。
自分が体験から会得した技術や精神。
特に弓道に置いては、それが、抽象的で時に哲学的表現が多く、
「体験してみなければ分からない」事が多い武術です。
ただ僕は、それが、実はとてもリアリティがある、価値がある事だと思っています。
やはり僕は自分の体験として、正鵠は射るのではなく得るもの、
もっと言えば失わないものだと思います。
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さて、話は変わりますが、来年度から義務教育で、武道が必修となります。
日本の伝統・文化を知る事は大変良い事だと思いますが、心配なのは指導者の質です。
大学の教職課程で、かじった程度の人間が、武道の何が分かり、何を教えられるでしょう。
僕は、自分の体験として、学校体育がスポーツの楽しみを奪ってきたと思っています。
学校教育のなかでは、弓道に出会う事も無かったでしょう。
武道を導入する事の目的が、武道や文化の理解であるのに、
学校以外で、柔道・剣道・相撲以外で、それを学習してきた子供は、全く評価されないでしょう。
また、武道の経験の無い教師には、何をどう理解しているのか、評価する事もできないでしょう。
日本の教育は、いつまで、学校の中にとどまっているのか。
恐らく、武道の事など露ほども理解していない人が考えた、都合の良い建前に幻滅してしまいます。
※
武道の経験がない先生が教えたら、
相撲なら、八百長も文化でしょ?と言われてしまいそうですね。
柔道なら・・・自粛します(^^;
2012-01-12 17:12
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コメント(7)
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弓道奥が深いですね。
私にとって知らない事だらけで新鮮でした。
by LoveBeer (2012-01-12 20:14)
弓道の魅力は私にも少しは分かります
上野精養軒下の五條天神で朝もやの中練習している方を見ては
神聖な武道と感じていました。 小学校の友達に五條天神の息子がおりまして礼儀作法と何回か射らしていただきました。
by ディブ松本 (2012-01-13 00:02)
高校の時 柔道場の隣が弓道場でした。
私の中でのイメージは
弓道部 勉学に励み、端麗な顔立ち 私脱いだらすごいんです系
柔道部 不良がかった 汗臭い おっさん (^^ゞ
甥っ子が弓道部らしいです。 弓道部のイメージとはちょいと違う奴です。
by 天災かずおやじ (2012-01-13 12:42)
LoveBeerさん
そうですね、
弓道は、射的系のスポーツでは、とても原始的なんです。
アーチェリーパラドクスを何も解決していません(^^;
それが技術なんですが、でも、感覚が大切なのは、
どんなスポーツも同じだと思います。
ディブ松本さん
静の武道ですから、厳かな感じがするのだと思います。
これが大学になると、大声で応援したりすので、
なかなかウルサイのですが、それはそれでいいのもです。
また、それでも、会の一瞬は、満場が静寂になる事があります。
天災かずさん
私は、「脱ぐと腹がすごい」系になってしまいました(T_T)
弓道だって大学に行くと、汚いものですよ。
的場は土なので、ドロだらけになりますし、
風呂だってろくに入れません(^^;
by evergreen (2012-01-13 14:41)
弓道は求道でしょうか?
弓道は経験は無いですが、女子部員が
キリリっと矢を引き絞ったところは、憧れますね。
こんな程度の感想ですいません。(汗!)
それにしても、手作りの矢羽で練習できるというのは、
今では恵まれていますね。
by シゲ (2012-01-15 22:16)
金山城、
確かに少しやりすぎの感もします。
by ねじまき鳥 (2012-01-16 20:14)
シゲさん
鋭いですね、「弓道即求道」という言葉があって、
ステッカーにもなっていました。
ねじまき鳥さん
金山城の石垣に使われた石の種類を調べたことがないのですが、
脆い石だったのかもしれませんね。
by evergreen (2012-01-17 15:35)