鉢形城 [城巡り]
復元された四脚門
見過ごされがちですが、
荒川から見た断崖絶壁が、この城の最も重要な姿だと思います。
埼玉県小川町で仕事があり、
かねてより訪ねて見たかった鉢形城に立ち寄りました。
10年ほど前は、館林に住んで小川町に来ることも多く、
訪れる機会は何度もあったのですが、「いつでも行ける」と思っているうちに転居してしまいました。
この日は、秋の行楽シーズンと好天が重なり、
東名は川崎から大橋まで渋滞、
外環は美女木から大泉まで渋滞、
関越は所沢から高坂まで渋滞、
7時頃横浜を出て、小川町到着は、10時半を過ぎていました。
11時半ころに小川町を出て、鉢形城に着いたのは12時くらいでした。
帰りは14時頃に鉢形城を出て、花園から関越へ、
大橋で1kmほど渋滞しましたが、ほぼ順調でした。
できれば、花園城にも行きたかったのですが、帰りの渋滞が心配なので、またの機会としました。
戦国期の城としては、規模が大きく、また遺構もよく残されており、整備されています。
とても見ごたえのある城でした。
ただ整備されているとはいえ、舗装路ではありませんから、
晴天でも動きやすい格好で訪れた方が良いと思います。
近世城郭のような石垣も建物もない城ですが、観光の人もおり、
ハイキングの人も、ちらほらと見受けました。
Yシャツの首にタオルかけて、
スーツのパンツにトレッキングシューズ、
シマノのウインドブレーカーを着た私は、かなり異様だったかもしれません。
荒川と深沢川に挟まれ、西側は荒川に面したた断崖絶壁、
東側は深沢川を天然の堀としてたの要害で、荒川に面した断崖に曲輪を連ねており、
平地部に面する南西側に大手、深沢川の対岸に外曲輪を配置しています。
鉢形城は、関東管領山内上杉氏の家臣長尾景春により築城された伝えられています。
北条氏康が河越夜戦で上杉朝定・上杉憲政に勝利して、武蔵国における覇権を確立すると、
氏康の四男北条氏邦が入り、拡張整備が行われ、
北条氏の北関東(両毛)支配と武田氏への備えとして、最重要拠点となりました。
1569年に武田信玄、1574年に上杉謙信、両雄の攻撃を受けても落ちなかった城ですが、
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで、前田利家等の攻撃を受け一ヶ月の籠城の末に開城。
北条氏邦は、前田家に預けられ、金沢で没しました。
徳川家康の関東入りの後は、
成瀬正一、日下部定好が代官となりますが、城としての規模はかなり縮小されていたと思われます。
まずは、鉢形城歴史博物館の駐車場に入り、パンフレットを貰いました。
歴史博物館の入り口は、冠木門
歴史博物館の東側の外曲輪と土塁
歴史博物館北側を降りていくと深沢川があり、
主郭を守る天然の堀になっています。
深沢川から上ると、二の曲輪に付随すると思われる曲輪の土塁と虎口、
二の曲からは一段低くなっており、深沢川側の防御の出丸でしょうか。
ここを上ると、城跡を貫く道に出て、主郭があります。
先に北側の笹曲輪を見学して、三の曲輪まで歩くと、三の曲輪前に駐車場がありました。
隅から隅まで見て歩くとかなりの距離ですので、車を移動した方がいいでしょう。
私は、車を移動して、三の曲輪・二の曲輪を見学しました。
跡を貫く道から見た虎口
実際は、ここから道に沿って歩き荒川に出ました。
この曲輪の北側から深沢川に降ります。
深沢川から上ると、外曲輪が延々と広がっています。
大兵力の駐屯が可能だったのでしょう。
外曲輪の土塁
荒川に掛かる正喜橋から城跡を見ます。
正喜橋の袂、笹曲輪の石碑
笹曲輪
笹曲輪と本曲輪を隔てる土塁に残る石垣の跡
こっちの石積は後世のものかもしれません
本曲輪の土塁
こちら側は搦手になります。
御殿曲輪、御殿下曲輪、本曲輪と分けて解説している場合もありますが、
確証がないのでしょう、現在では、「伝」御殿曲輪、「伝」御殿下曲輪と表記され、
合わせて本曲輪とされているようです。
伝御殿曲輪の土塁
本曲輪(伝御殿曲輪)にある田山花袋の歌碑
本曲輪(伝御殿曲輪)の平場
本曲輪から二の曲輪・三の曲輪と続きますが、三の曲に車を移動して、
大手から三の曲輪、二の曲輪と見学しました。
駐車スペースの北側にある馬出
東の深沢川方面の攻撃の拠点です。
JR八高線の踏み切り付近、諏訪神社の辺りが大手でした。
大手の東側の堀と、東側の曲輪に繋がる土橋
大手の東側にある曲輪
伝逸見曲輪の上段のようです。
大手東側の水堀
伝逸見曲輪
三の曲輪虎口
三の曲輪
復元された四脚門
四脚門の内側には、石組排水路が復元されています
復元された石積み
近世城郭の石垣と違い、土塁の補強のために、土塁の内側に積まれています。
伝秩父曲輪に復元された東屋
発掘の結果、庭園があった事が分かり池が復元されています。
三の曲輪馬出と木橋
西側、荒川の川岸に降りられるようになっていてて、攻撃の拠点です。
三の曲輪と二の曲輪の間の土塁と堀
東側
三の曲輪と二の曲輪の間の土塁と堀
西側
発掘の結果、
北条の城の代名詞となっている畝堀の畝が確認され、復元されています。
一本という事はないと思うのですが・・・
二の曲輪
二の曲輪から本曲輪方面
通路と説明があります。
二の曲輪北側の土塁
上段西側
二の曲輪北側の土塁
下段東側
2012-11-11 02:11
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コメント(3)
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城跡に四脚門は珍しいですね。
by ねじまき鳥 (2012-11-19 00:45)
池や東屋があった事を考えると、
城主の住居だったのでしょうね。
by evergreen (2012-11-19 10:03)
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
by 職務経歴書 (2012-12-02 16:47)