小学4年だか5年の頃、両親から古いモノラルラジカセをもらった。
ミュージックカセットを持っていなかった私は、まずラジオを聴き始めた。

その日は土曜日、夜更かしをして聞いていたラジオから、
それまでとは全く違う、陽気な声が聞こえてきた。
テンポの良い面白い話しに引き込まれていくと、突然、胸を突くような歌が流れてきた。
これは何だろう。
結局、この日流れた歌は、すべてが衝撃だった。
この面白い人が歌っているんだ・・・そう理解したのは、番組も終了の頃だった。
それが、「さだまさしのセイ!ヤング」の第一回放送だった。

それから、私の少年時代は彼と共にあった。


「たかだかの自分」

彼が折に触れて使う言葉だ。

見栄やプライドがあると、無理をしたり、傷ついたりする。
だけど、本当の自分は無力で小さなもの、汚い所も醜い処も有る。
「自分なんてたかだかこんなものだ」と認めてしまえば、楽になれる。
最低の自分と向き合えば見えてくる物がある。
どんなにがんばったところで、自分以上にはならない。
だけど、どんなに悪くても自分以下にはならない。
私はこう解釈している。


思春期というのは、
「肥大していく自意識と本当の自分の折り合いをどう付けるか」だと思う。

私は、打てば響くタイプではない。
一つの事を習得するのに、他の人より時間がかかる。
いわば「どんくさい」のだ。

どんくさい上に、太っていて※1、成績が良かったわけでもない。
さらには女の子と間違えれれるような、すこしエキゾチックな「外人」系の顔立ちだった私は、
まさに良いところがない少年だった。※2

だけど、プライドは高かった。
他の子供と自分は違うと思っていた。
それは、たまたま、親類に連れられて、いろいろな場所を訪れることが多かったので、
歴史や日本文化について、他の子供より知っていという、
たかだかそれだけの事だったのだが。

でも、そんな小さなプライドでも、自分の嫌ところから目を背けるために、
さらにそれにすがりつく、嫌な子供なっていたかもしれない。

人間というのは、本当に簡単な事で他人を見下すものだ。


「たかだかの自分」

そう聞いたとき、超然とする自分を感じた。
客観視という意味だ。
自分に対して超然としてしまえば、これほど楽な事はない。

外見を気にする事もなくなった。※3
自分を客観的に見てみれば、自分を飾る姿は恥ずかしい。

他人に対して、自分を認めて欲しいと思う自分の姿は恥ずかしい。

いまでも、私には、あまり強い自己顕示欲は無いと思う。

私は、自分が、どんくさい事を知っていたので、
自分に過度な期待はしなかった。

自分がどれほど得意な事でも上には上がいる。
だけど、自分が決めた事だけは、誰にも負けないくらいになる。
自分が好きな事、努力できる事、それだけに全力を傾けることにした。


「たかだかの自分」

私にも、自分を支えるささやかなプライドは幾つかある。

だが、今でも、
自分が嫌になりそうな時、
逆に、
自分が思い上がりそうなとき、
この言葉を思いだす。

ともすれば自己嫌悪に陥りそうな、
「本当は認めなくない自分」を認める事は意外にエネルギーが必要だ。
しかし、自分の汚さや醜さを認めない限り、他人を認めることはできないと思う。


※1 少年の頃の私のために弁解すると、中学で痩せて、大学でまた痩せた。
※2 はっきり言うといじめられてたのかもしれない。
※3 ・・・あまりに外見を気にしなさすぎて、今の醜悪な腹になってしまった。少しは気にした方がよさそうだ。