○○時間、友人たちは僕の苗字を付けてそう呼ぶ。
所謂待ち合わせに遅れること。

聞いた話では、ラテン系の人たちは、
九時待ち合わせというと、九時から九時五十九分までが待ち合わせ時間だと言うそうだが、
(事実ではなく笑い話かもしれない)
僕の待ち合わせ時間は、それと同じような感覚で捉えられている。

先日、大学時代の友人と飲む機会があった。
僕は仕事が終わってから東京まで出掛けるので、二十時くらいになると伝えてあったが、
到着したのは、二十時半だった。

友人は
「ありえない!時間通り!」
と感動していた・・・。

だが、当日来ていただいた先輩さえ、
間に合わなくなるというので、仕事場から直行したというのに、
僕は、一度自宅に帰り、着替えて、シャワーまで浴びていたのだ。
しかも、東京駅でどうしても立ち食いそばが食べたくなって、探していたため、十五分は遅れた・・・

結局僕はまた、新しい笑い話のネタを提供してしまった。


僕は圧倒的に待たせる事が多い。
それには幾つか理由がある。


一つ目は不眠。

僕は寝つきが悪い。
やっと深夜に眠りに付くことができても、翌日の朝に起きられない。
それで、待ち合わせに遅刻をする。

高校や大学の仲間はこのパターンの被害者が多い。
しかし、上級生になれば皆慣れたもの、僕を置いて先に行ってくれる。

問題は下級生の頃。
運動部には、連帯責任という、伝統がある。
同級生たちは皆ハラハラ・ピリピリしながら、僕を待っているわけだ。

しかし、僕はとくれば、全く気にしないように見えるらしい。
実はそんな事はなくて、本人は大変申し訳なく思っているのだが、
遅刻をしたからといって萎縮して、結果か悪い事が一番申し訳ないと思っているので、
なるべく平然と振舞うように努力していたに過ぎない。

寝つきが悪い理由は、考えすぎだと思う、
多分ウダウダと何かを考えていて、脳が興奮状態なのだ。
このような場合は、睡眠導入剤よりも、弱い精神安定剤を服用する事が効果的だ。


二つ目は時間把握のミス。

たとえば、車でAからBに移動する。
移動時間は三十分、余裕をみて四十分前に出発するが、五十分かかってしまった・・・
というような事がしばしば起こった。
移動時間が長ければ長いほど誤差も大きくなる。

これは僕には良く理由が分からない。
多分、給油が必要になったり、どこかに立ち寄ったり、渋滞していたり、と予想外の事が起こるのだろう。

同時に、恐らく、これから述べる第三・第四の理由が大きく絡んでいると思われるが、
この例は、家庭を持っている頃に多く現れ、主な被害者は元妻だった。

僕「○分ぐらいで着くかな」
元妻「どうせ着かないよ」
僕「・・・」

という会話が普通であった。


三つ目は錯誤。

どういうわけか僕は、時間と時間の関連を見失う事がある。
そこで、某狂言師なみの予定を立ててしまう事があるのだ。
当たり前だが僕はヘリコプターを使うような甲斐性はないので、解消できない。

この錯誤の説明は非常に難しく、また一番理解されない事なのだが、
ひどいときは、仕事の予定とプライベートの予定を、同じ日に入れてしまう事がある。
そして、直前まで気がつかない。
それは、カレンダーに書けとか手帳に書けとかいう問題ではないのだ。
実際に書いているのだ、別々のスケジューラーに・・・

本当に、後から思えば、自分が二人いて、別々の予定をしていたとしか思えない事があるのだ。


四つ目はこだわり。

僕は何か気になった事があると、それを済ましてしまわなければ気が済まなくなることがある。

たとえば、釣りに行く前の準備をしていてある道具を持っていきたくなり、それを探して出発が遅れる。
旅行に行く前に、急にデジカメを買い替えたくなり出発に遅れる。

ここまで行くとほとんど病的で、元妻からアスペルガー認定を受けた所以の一つである。
(アスペルガーは障害だが)

ただし、これは実は急にではない。

たとえばデジカメならば、以前から欲しかったものが、
旅行を機会に購入する決断がついたに過ぎない。
それが分かってしまえば、自分をコントロールすることは以外と難しくないのだ。



こんな事をしていては、社会生活に適応できるはずもないので、
社会に出てからは、
眠れなかったら寝ない、もしくは精神安定剤を服用する、
自分の時間計算は信用せず出来るがぎり早く行き、待つ、
準備は前日までに終わらせる、
等の対策をしている。


と、長々と言い訳を続けてきたわけだが、何がいいたいかというと、

ごめんなさい。

ということです。



アスペルガー症候群は知的障害を伴わない自閉症とほぼ同義と言われている。

最近は社会適合に問題があるかないかが重要になっているようだ。
あまりにもコミニュケーション面や社会適合が取り上げれるからだろうか、
専門医師の診察により否定をされても、対人関係が上手くいかないことを、
アスペルガー症候群が原因であると思いたがる人も多くなっているという。

僕の息子は自閉傾向と知的障害があり、
僕はアスペルガー症候群に対して知識もあるつもりだし、偏見はないつもりだ。
また、僕自身が、自閉症スペクトラムに照らし合わせれば、思い当たる事は多い。
しかし、一応の社会生活に適応できている以上、
自分にコミニュケーション障害があるかどうか、
またあるとすればそれが何であるか、
(アスペルガー症候群であるかないか)
に意味はないと思っている。

だけど、障害や疾病に限らず、世の中にはいろいろな人がいる。
僕が、息子の障害が分かってから思うこと、それは、
誰もが楽に生きられるよの中になって欲しいということだ。

その人の持っている属性を理解することは重要な事だ。

だが、人をその属性で理解しようとする事は、人を理解することではない。

だから僕は、人にレッテルを貼る人は好きになれない。


文中でアスペルガーという言葉を使った為に、
このような補足を書かなければならないと思うあたりが、僕の心配性を表してしるのかも知れない。