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茅ヶ崎城 [城巡り]

茅ヶ崎城は、
駅から10分ほどの住宅地に、
土塁と空堀で作られた中世関東の城の遺構が良好に残る城として知られています。

自宅から5分ほどのところにある茅ヶ崎城址、
いつでも行けると思うとなかなか行かないもの、
しかし来月の転居を控え、10年目にして初めて茅ヶ崎城址を訪れました。

茅ヶ崎城址入口というそのものずばりの交差点がありますが、
センター南駅から陸橋をわたる経路がお勧めです。

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センター南の改札を出たら出口1、東急SC方面に向かいます。
出口を左に曲がりサウスウッド前を進むと陸橋があります。

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陸橋を渡ると閑静な住宅街

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しばらくすると左に道があるので左折すると右側の山がもう茅ヶ崎城です。

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入り口は二つあり、奥の入り口が正面のようです。
これは手前の入り口の説明です。

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正面に中郭の土塁が見えてきました。

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北郭・中郭・西郭で形成された虎口

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西郭と中郭の土塁と空堀

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中郭と東郭の間の空堀と土橋
大きさからすると、堀の仕切りだったのかもしれません。

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東郭下の虎口、発掘調査から、この下には住居地域があったと考えられています。
城下町の古い形態である根小屋が地名として残っています。

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東郭平場
東郭は茅ヶ崎城でもっとも高い位置にあり、
主郭もしくは詰郭(最終防衛拠点)と考えられています。

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東郭下の腰郭

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東郭からみた中郭

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これは中郭からみた東郭
高低差が分かると思います。

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中郭には茅ヶ崎城で一番大きな平場があり、建物の跡が見つかっています。
南側の土塁は犬走りが設けられた二段構造です。
整備されているとはいえ、これだけはっきりと高土塁が見られる所はあまりありません。

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北郭の中郭土塁

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北郭と東北郭土塁
東北郭は住宅地として造成されています。

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北郭には詳細な説明があります。
実は、これだけの規模の城なのに、茅ヶ崎城の歴史は良くわかっていません。
北条の勢力化では、小机城を中心として小机衆が形成されたいたこと、
周辺が小机衆の座間氏の領地だったことから、
小机城の支城であったと考えられています。

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東郭と中郭の間の空堀

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東郭下の腰郭

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北郭と東北郭の間の空堀
こちらが正規の入り口になってりうようです。

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北郭にある土橋
ばっさりの切られています。

以上で城址を一周してきました。
茅ヶ崎城は、手軽に中世の城の城の特徴を見ることができるので、
城関係のセミナーででフィールドワークが行われたりします。
石垣も天守もありませんが、中世の城の荒々しさを感じる事ができます。
帰りはセンター南で食事やショッピングもできますので、
軽いハイキングとして出かけてみてはいかがでしょうか。




福岡城 [城巡り]

小倉を出て、下関で墓参を済ませ、福岡に戻ります。

下関に向かう関門大橋は大雨でした。
墓があるのは彦島。
壇ノ浦で平家が本陣を置いたところで、平家の落人伝説が残り、
イギリスはこの島の租借を馬関戦争の講和条件にしたと伊藤博文は回想しています。
犬山の観光特使である田村淳さんの出身地というのも奇遇です。

妻の祖父は、高等商船を出て海軍の駆逐艦の艦長で終戦を迎えました。
祖母は長崎の出身で女学校を出ていたという事で、
英語や関数の素養があり、びっくりしたと妻は語っています。

彦島に入ったときは小降りだった雨が、
墓地に着くころは大雨でした。
念のため花と一緒に購入しておいた合羽が役にたちました。


前回下関を訪れたときに見られなかった長府の櫛崎城の事を帰宅するまで忘れていて、
せっかく唐戸市場に立ち寄ったのだから少し足を伸ばせばよかったと後悔しました

帰りは晴れ渡り、関門海峡がよく見えました。
福岡方面に向かうとめかりPAには入る事ができないので、
壇ノ浦PAに寄ってみればよかったと、これまた後悔しました。

当然というべきか、海峡を挟む高地は戦略上重要なので、
関門大橋のたもとの山には門司城があり、毛利・大友の抗争の舞台となり、
近代では下関要塞の一部となっています。
事前の勉強で調べていたのもの、飛行機の時間があるので先を急ぎます。


以前は新幹線で博多まできて、
真夏というのに駅で水炊きまで食べたのに、
福岡城は素通りしてしまいました。

当時は場内に平和台球場があり鴻臚館が発見される前でした。
野球場がある城なんて痛々しくて見られなかったのです。

妻は福岡に住んでいた事があり、度々大濠公園を訪れたと言うのですが、
ここが城址だったとは知らなかったようで、
城址と気が付かれない城なんて益々可愛そうです。

その妻は墓の清掃で疲れ切ってしまったようで、
飛行機の時間も迫っており、
時々強い雨が降る中を一人駆け足の見学となりました。
墓参の為に購入した雨合羽が活躍したのは言うまでもありません。

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下之橋枡型から下之橋御門と潮見櫓
下之橋御門は平成12年に焼失し、本来の姿と言われる上部構造を持つ二層の門として復元されました。
潮見櫓は黒田邸に移築されていたいものをここに移しました。
長く潮見櫓と言われてきましたが、
市内崇福寺から寺内に潮見櫓を移築したという記録がみつかり、
この櫓の本来の名称(位置)は不明になってしまいました。
それは置くとして問題は櫓の位置です。
櫓は上方の有利な位置から下の敵を攻撃する事に意味があります。
石垣から離して、しかも塀の後ろに櫓を置いても何の意味もありません。
本当に櫓が可愛そうです。

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名島門
小早川隆景の居城だった名島城の門だと言われています。
小早川秀秋が岡山に移ると黒田長政が名島城に入りました。
長政は福岡城を築き移りますが、
この門は家臣に下げ渡されたという伝承があり、
福岡の民家にあったものが現在の位置に移築されています。

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本丸下南側の石垣

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南丸の南北の隅櫓とそれを繋ぐ多門櫓
これを見るためにとにかく急ぎました。
この多門櫓の南隅櫓は重要文化財です。
写真の北隅櫓は復元されたものですが、違和感がありません。

もう時間がありません。
残るは本丸です。
優先度は低いのですが、ここでまきたら見ておきましょう。

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本丸天守台
うわ!
ビニール合羽を着て雨と汗で大変な事になりながら急いだのに、
天守台の入り口(鉄御門)が工事中です。
がっくり・・・

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祈念櫓
鬼門にあたる方角に置かれた櫓で、
市内の寺で御堂として使われていました
漆喰・唐窓で櫓台に沿った大きさの古写真とくらべると、
全くと言っていいほど大きさも外観も異なります。

市内崇福寺には表御門が移築されています。
移転計画もあるようですが、長く山門だったわけですから、
復元した方がいいのではないかと思います。

市街化されている事もあり、縄張りの妙を見る事はできませんが
これだけの石垣は立派なものです。
天守建設計画もあるようですが、存在が分からない天守より、
櫓や門・壁を復元すれば、アクセスの良さもあり、近代城郭の集大成を表す城址になるのではないでしょうか。
できれば、競技場や場内を縦断する車道は撤去してもらいたいものですが。




小倉城 [城巡り]

小倉に着くとすっかり日が暮れていました。
小倉の町は整然としていて、どこか東京の大手町のようです。
以前九州を訪れた折は、小倉も素通りしてしまいました。

今回は小倉城も見るつもりでしたが、
明日は下関で墓参、福岡から午後の便で帰るので時間が取れそうもありません。

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ホテルに向かう道すがら、紫川沿いでイルミネーションが見えたので、
食事に出かけたついでに電飾された橋を渡ると、その先に天守が見えました。
明日は時間がないので、外観だけみておく事にします。

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小倉城天守
この角度からみる美しいと思いますが、
どうしてもコンクリートの天守を評価する気にはなれません。

江戸時代に焼失した天守は、入母屋以外に破風のない南蛮作りだったと言われています。
その天守を真似たという津山城天守は写真が残っています。
現在の天守は破風に飾られた史実に基づかないもの。
周辺は公共施設が置かれ、石垣や天守・櫓などの方が場にそぐわない感じがしてしまいます。
市街化された城を避けてきた理由です。

小倉城は毛利(森)勝信が整備し細川忠興によって改修されました。

細川忠興は、初め中津城に入りました。
小倉には弟興元が置かれます。
勇将として名の高かった興元ですが、やがて出奔してしまいます。
興元は後に徳川秀忠によて取り立てられ、茂木・谷田部藩の祖となりました。
小倉には忠興の子で興元の養子となっていた興秋が任じられます。
しかし、兄忠隆の廃嫡、弟忠利が世子とされると、興秋までもが出奔してしまいます。
興秋は大坂の陣で豊臣方として戦い、戦後自刃しました。

細川家中の記録によると、
興元は忠興に臣下の扱いをける事が不満だったとされています。
あくまで形式上ですが、忠興は奥州細川家の養子になっているので、
興元は和泉細川家の当主という事になるからです。
関ヶ原後、忠興の父幽斎は幕府から隠居料を持ち京都に残っています。
幽斎は文化人だったので京都に居たかったでしょうし、
幽斎と廃嫡され京都に居た忠隆の人脈と情報は、
細川家の存続に大きく寄与したと言われていますが、
忠興は、関ヶ原で田辺城を明け渡した幽斎を罵倒したという逸話もあるので、
家中に争いの種を産まない配慮だったのかもしれません。

興秋は、弟忠利が世子となった事に不満を持ったとされていますが、
興秋は興元の養子になっているので疑問が残ります。
興秋は関ヶ原の戦功があり一城を治めているのにたいし、
忠利には何の実績もなかったので、やはり家中の分裂を防ぐ為だったのかもしれません。
ただ、大坂の陣で豊臣方に付いたので、
出奔の理由を家の存続や安定と考えるのにも躊躇があります。

細川幽斎は足利義昭が京都を追放された後から長岡氏を名乗っており、
忠興が細川に戻るのは大坂の陣の後になりますが、
忠利はそれ以前に徳川家康の命で細川を名乗っています。
人質として江戸にいた忠利は、徳川秀忠や近習と親しく、
秀忠の養女として小笠原秀政の娘(家康の曾孫)を正室としています。
前田利家の娘を正室としていた忠隆を廃して忠利を据えたのは、
家系存続の策だったと言われています。

細川忠興とその一族は興味深いものがあります。


細川氏が熊本に移ると、小倉には譜代の小笠原忠真が封じられました。
中津には甥長次、杵築には弟忠知が配されました。
九州の抑えを期待されていた事が分かります。

忠真の母は松平信康の娘であり、家康の曾孫に当たります。
つまり細川忠利とは義兄弟です。
幕府の期待通り、島原の乱では活躍しました。

しかし、代を重ねると、領内は凶作と飢饉に苦しめられ、
重税と身分制度の強化策がとられ、財政は悪化し、領民は疲弊していきました。
有効な政策が取れないまま小笠原騒動や白黒騒動が起こると、
その後も家中の分裂と抗争が続き、
幕末にはその力が弱まってしまいました
第二次長州征伐では小倉口の先方として出陣するも、幕府軍の瓦解で孤立。
やがて小倉口に戦力を集中した長州によって、
門司ついで小倉が占領されてしまいます。
門司・小倉に長州が進駐することで講和が成立。
豊津に移った小笠原氏は小倉に戻る事ができませんでした。
しかし、講和成立前は単独で反撃を試み、一時は小倉を奪還しました。
本拠地が戦場になったとはいえ、
早々に降伏した譜代に比べればはるかに見事だといえるでしょう。

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小倉城にもネコが居ました。
今回は本当にネコと縁があります。


翌朝、ホテルの間からは対岸の下関の彦島が見えました。




中津城 [城巡り]

セントレア(中部国際空港)に一泊して妻の祖母の墓参の為に下関に向かいました。
セントレアからは、山口・北九州に航路がないので福岡に飛びます。
福岡からレンタカーを借りて、少し足を延ばして中津城に向かいました。
犬山城に続いて旧藩主(関係)所有の城です。

宇佐神宮や国東半島は訪れた事があるのですが、中津城は見ていません。
当時の私は、
存在しない天守がコンクリートで作られている城
コンクリートで天守が復元されている城
役所や学校などが作られ改変されてしまった城
は優先度を下げていました。

福岡到着が午後で翌日の下関移動を考慮して小倉泊だったので、
この日は行動範囲が制限されます。
今回は城めぐりが目的ではないので、
少し引いた気持ちで、いままで避けてきた城を訪れる事にしました。

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天守です。
中津城を避けた理由がこの天守でした。
この天守は全く史実に基づかない模擬天守です。

それでも、板張りを模した外壁て望楼が小さい古い様式の天守は様になっていますが・・・

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この角度から見ると、櫓台に比べて構造物が大きくバランスが良くありません。
江戸時代の絵図によると、この位置には二層の隅櫓がありました。

ところで、この写真の右下で妻と遊んでいる人懐こいネコは・・・

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このネコです。
中津城にもネコがいました。


中津城は黒田官兵衛によって築かれました。
しかし後の細川忠興によって大規模な改修が行われています。

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有名な石垣の継ぎ目
右が黒田、左が細川によって詰まれました。

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中津川沿いの石垣も黒田時代のものです。
江戸時代の絵図によると、写真奥に見える櫓台あたりに三層の櫓が画かれています。


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西門跡
絵図によるとこの遺構は虎口の横矢で、一層の櫓が画かれています。
門はこの写真の右側、ちょうど道なりの位置に画かれています。
この先に水門跡があります。

中津城で特記すべきは、おかこい山と呼ばれる総構が現存する事ですが、
到着時にすでに夕刻で見る事ができませんでした。


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赤壁寺の通称で知られる合元寺です。
黒田長政によって城井鎮房が謀殺されたおり、鎮房の家臣団がこの寺に籠って抵抗、
その血が壁に残って落ちないので赤く塗ったという伝説があります。

大河ドラマの官兵衛人気にあやかろうと、
そこかしこに官兵衛を模したキャラクターの旗が立っています。
トイレを借りるついでに官兵衛の資料館をのぞいてみましたが、
ドラマ関係の展示が目につき、歴史的資料と言えるような物はありませんでした。

事前の勉強で中津城公式サイトを調べてみると、
中津城と奥平氏の歴史と題されていいるものの奥平氏を顕彰し、
家康の血筋を強調すのみで辟易してしまいました。
確かに家康の娘を妻とした奥平信昌は長篠の戦いで大きな功績があり、
その子は家康の孫として奥平家は譜代で重きをなしましたが、
ひ孫昌能は、家中の刃傷事件で公正な裁定ができなかった為に混乱と家臣の離反を起こし、
また不用意な一言で家臣が幕府の禁じる殉死をしてしまい減転封されています。
昌能には臨終に際し後継がなく、
正規の手続きを経ない末期養子でなんとか家名を繋ぐことができました。
それが中津に封じられた昌成の父である昌章です。
五代藩主昌高は島津家からの養子です。
幕末、小倉を占領されても戦った小倉藩に比べ、
中津藩は早々に新政府に付き、会津にまで出兵しました。
長い歴史のなかでは当然このような事もあります。
そのため、
同じような視点で奥平氏関係の資料が展示されているであろう天守には入りませんでした。

やはりというか、ため息の方が多かった中津城でしたが、
史跡としての中津城には全く責任がなく、すべては人間の欲望の発露と軽挙の結果です。
しかし、学術的な発掘調査を基に石垣の復元整備が行われている事を知り、関心するとともに安心しました。
保存と学術調査そしてそれに基づいた復元があるべき姿だと思います。



犬山城 [城巡り]

一月に妻の親類を訪ねたついでに犬山城に行って来ました。
20年ぶりくらいでしょうか。

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天守です。

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天守から見る木曽川の景色はすばらしいものです。

国宝4天守の一つで、
望楼部分が小さい古い形式を残していますが、
現存する建造物は天守のみであること、
天守の入り口にビニールのひさしを付けている事で、
以前訪れた印象が良くありませんでした。

天守内に各地の天守の写真が飾れらていたり、
望楼には歴代城主の肖像が飾れていたり。
ありがちな展示が興を削ぎます。

明治以降の成瀬氏当主の写真が飾られているにいたっては苦笑しかありません。
近年まで犬山城は成瀬氏の所有でした、
個人で国宝を所有し維持することは大変だった事でしょうが。


しかし、木曽川の対岸(岐阜県各務原市)に渡ったところ、印象が全く変わりました。

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木曽川を挟んでみると、白帝城の異名を持つ城の面目躍如。
小さな天守が信じられないくらいの存在感です。

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このアングルもなかなか目にすることがありません。


成瀬氏は尾張藩の付家老だったので、犬山は藩ではありませんでした。
しかし、明治新政府により正式に藩をとして認められます。
廃藩置県までのわずか2年半でした。


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城下町の空き地でネコが集会をしていました。
犬山なのにネコが多いいのですね。


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本丸の搦め手(七曲門)七曲道です。
ここから木曽川に降りた所に水の手が設けられていました。

あらためて訪れていみると、
織田・斉藤、豊臣・徳川の争いの最前線にあって実戦を経験している城にしては、
本丸まで大手道を通しその左右に郭を配し、虎口は大手と本丸入口という単純な縄張りに驚きます。




高根城と奥大井湖上駅と蕎麦 [城巡り]

以前から、中世山城を復元した高根城を訪れてみたいと思っていました。
当初10月に計画していたのですが、台風と重なり延期を余儀なくされ、
今回訪れるにあたり、
以前アプトラインに乗ったとき天候が悪く降りる事が出来なかった、
奥大井湖上駅を計画に加えました。

東名の渋滞を避けるには、朝早く高根城に到着、
午後の早い時間に、東名の中井から大和を通過して帰宅するつもりでした。
しかし、今回の計画は、朝のうちに高根城に到着するところまでは同じですが、
川根本町の国道362の交通規制を避ける為に、午前中のうちに千頭まで到達し、
夕方は、島田金谷付近で、東名の渋滞が解消されるまで仮眠する事にします。

ちなみに私、城が好きですが、
縄張りや防衛の工夫より、櫓・門・石垣などの建築物や構造物が好きです。
最近テレビでよく見かける、
「お城を攻める気分で鑑賞しましょう!」などと言われてしまうと、ちょっと違う・・・
なんとか隊などという甲冑隊などが登場すると邪魔(甲冑は好きなのですが)だと思ってしまします。
この高根城も、11月の初めに甲冑隊と浜松の地方アイドルが登場して、お祭りをしていたそうです。


3時半出発
初めて新東名を走り、浜松浜北で降りて天竜川沿いに国道152を一時間ほど北上、
7時半ごろに高根城に到着しました。


水窪橋を渡って一本目の川沿いの道、二本目の中学校の前の道、
どちらからもアクセスできますが、途中から車一台の幅になるので注意が必要です。
10台ほど止められる駐車場には、トイレが設置されています。
城址までは、ちょっとした山道になりますので、飲み物は用意しておいた方が良いと思います。
駐車場に売店や自動販売機はありません。
朝早かったので水窪の町中に店があるかどうかわかりませんでしたが、
中学校の前に自動販売機があります。
この日は、国道沿いの温度計の表示が-2度でした。
川沿いにありますので、冬は少し大げさな防寒対策をしておいた方が安心です。

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高根城の縄張り図
山頂の尾根を利用して、南北に曲輪が配置されています。

高根城は、発掘調査によって15世紀ごろの遺構が確認されているので、
当時この周辺を勢力下に置いていた豪族の奥山氏によって築かれたと考えられています。
奥山氏は今川氏の影響下にありましたが、今川氏の没落とともに、武田氏の勢力が浸透、
高根城は、武田氏の影響下で改修が行われたとされています。

復元整備されているくらいですから、登山道が整備されていることは分かっていましたが、
実際どの程度の山道なのかは、行ってみなければわかりません。

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階段の登山道を上っていきます。

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途中から石段が現れます。

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15分ほどで、本曲輪下に出ました。

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本曲輪城門(大手)

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本曲輪外側の塀と内側の柵

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礎石跡に復元された建物と掘立柱跡に復元された井楼櫓

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本曲輪内側の門と井楼櫓

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南側からみた東側の城壁と井楼櫓

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本曲輪と二の曲輪の間の堀切

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二の曲輪

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二の曲輪下の堀切

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本曲輪南側の城壁

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本曲輪下の馬出にある武田時代に築かれた石垣

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三の曲輪から見た二重堀切
二重堀切は、武田氏の築城の特徴とされていますが、これはかなり大規模な構造です。

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下りも足にきます。

冒頭に、建築物や構造物に興味があり云々と書きましたが、
権力の誇示を目的にして建築物や構造物が発達した近世の城と、
実戦を経験している中世の城は、全くの別物です。
この高根城にしても、縄張りは非常に単純で、後世に見られるような様式美はありませんが、
小さいながらも自然を利用した配置は、迫力がありました。
また、私が中世の城跡を構造を臨場感を持って鑑賞する事ができないのは、
地形を視覚的にとらえる能力の低さによります。
この高根城は、私のような三次元的な視覚的想像力の乏しい人間にも、
城の構造を活き活きと伝えてくれます。
この城址の整備は、非常に有意義だと思いました。


ここらから奥大井(千頭)を目的地に設定してナビで検索をかけると、
県道389号・国道362号を通るルートが表示されました。
しかし事前のリサーチで、
このルートは、かなりの狭隘区間があるマニア向けルートである事が分かっていました。
険道・酷道フェチ以外は、選択してはいけないルートのようなので、
遠回りのようでも、浜松浜北まで戻って、島田金谷から奥大井方面に向かいます。

8時40分ごろ高根城を出発
島田金谷から今度は大井川を北上。
国道473号・駿遠橋で県道64号・地名トンネルから県道77号・下泉で国道362号と、
道路標示の通りに走るだけですが、
春と秋の行楽シーズンは、
千頭を目前にした小井平~崎平の約2kmの狭隘区間で、片側通行の規制規制が行われています。
この日は、大した交通量ではなかったので、10分ほどの待ち時間で通過できました。

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国道473号 地蔵峠から見た大井川

11時20分頃に千頭駅に到着。
‎千頭駅に隣接する道の駅(音戯の郷)の駐車場はかなり混んでいるのですが、
千頭駅周辺には、人がいません、不思議です。

今回千頭に立ち寄った理由は、蕎麦。

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丹味
前回千頭を訪れた折は、その存在を知らず、のちにネットでその評判を知って残念な思いをしました。

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太さがそろって、角が立った、美しい蕎麦。
水切りも申し分なし。
一口で、蕎麦の香が広がります。
つゆは、辛いのですが、どっぷりと付けても、負けない蕎麦。
いや、これくらいの辛さでないと、蕎麦に負けるのかな。

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美しい肌です。
ここは、大盛りがないので、ざるを二枚食べました。

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丁度千頭駅にSLが到着していたので、入場券150円を購入して、撮影しました。
ここにもあまり人がいません。

12時20分ごろに千頭は出て、30分ほどで奥大井湖上駅に到着しました。
奥大井湖上駅には駐車場があるのですが、入り口が分かりにくい。
トンネルの両側に駅に降りる歩道につながる道の入り口がありますが、
この道には駐車できません(無理やり一台止めていたけど)
駐車場は、接阻峡方面に少し走ったところに、千頭方面に降りて行く道があります。
神社の祠が見えてきたら通り過ぎています。
トンネルの千頭側に三台ほど停められるスペースがあります。



駐車場の入口


ここに三台くらいとめられる

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トンネルの千頭側手前にある道を入ると、奥大井湖上駅を見下ろす事ができます。

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レインボーブリッジ
歩いて渡る事ができます。
先に見えるのが奥大井湖上駅です。

アプトラインの到着時間を調べて、上りを上から撮影するつもりだったのですが、
上りと下りを間違えてしまい、奥大井湖上駅に降りてしまいました。
上りが到着すると気がついたのは、5分前。
これから上っても間に合わないので、レインボーブリッジの通過を撮影する事にしました。

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レインボーブリッジを通過するアプトライン

10分後に下りアプトライン到着するので、急いで上ります

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なんとか下りの通過に間に合いました。

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汗をかいてしまったので、接阻峡温泉会館で温泉に入りました。
いまどき300円です。
お風呂は、広くないので、5人も入れば一杯。
寸又峡のようなヌルヌルとしたお湯、温まります。

帰路も千頭に立ち寄り、駅前で川根茶のソフトクリームを食べました。
15時ごろでしたが、駅前は閑散として、冬の斜陽とあいまってさびしい限り。

川根温泉会館にも寄ってみましたが、人が多く温泉には入りませんでした。

島田金谷近くのモーテルで4時間ほど仮眠して、同時に東名の渋滞を避け、
21時ごろ島田金谷を出て、23時半ごろに帰宅しました。

走行距離は、670kmでした。




鉢形城 [城巡り]

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復元された四脚門

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見過ごされがちですが、
荒川から見た断崖絶壁が、この城の最も重要な姿だと思います。

埼玉県小川町で仕事があり、
かねてより訪ねて見たかった鉢形城に立ち寄りました。
10年ほど前は、館林に住んで小川町に来ることも多く、
訪れる機会は何度もあったのですが、「いつでも行ける」と思っているうちに転居してしまいました。
この日は、秋の行楽シーズンと好天が重なり、
東名は川崎から大橋まで渋滞、
外環は美女木から大泉まで渋滞、
関越は所沢から高坂まで渋滞、
7時頃横浜を出て、小川町到着は、10時半を過ぎていました。
11時半ころに小川町を出て、鉢形城に着いたのは12時くらいでした。
帰りは14時頃に鉢形城を出て、花園から関越へ、
大橋で1kmほど渋滞しましたが、ほぼ順調でした。
できれば、花園城にも行きたかったのですが、帰りの渋滞が心配なので、またの機会としました。

戦国期の城としては、規模が大きく、また遺構もよく残されており、整備されています。
とても見ごたえのある城でした。
ただ整備されているとはいえ、舗装路ではありませんから、
晴天でも動きやすい格好で訪れた方が良いと思います。
近世城郭のような石垣も建物もない城ですが、観光の人もおり、
ハイキングの人も、ちらほらと見受けました。
Yシャツの首にタオルかけて、
スーツのパンツにトレッキングシューズ、
シマノのウインドブレーカーを着た私は、かなり異様だったかもしれません。


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荒川と深沢川に挟まれ、西側は荒川に面したた断崖絶壁、
東側は深沢川を天然の堀としてたの要害で、荒川に面した断崖に曲輪を連ねており、
平地部に面する南西側に大手、深沢川の対岸に外曲輪を配置しています。


鉢形城は、関東管領山内上杉氏の家臣長尾景春により築城された伝えられています。
北条氏康が河越夜戦で上杉朝定・上杉憲政に勝利して、武蔵国における覇権を確立すると、
氏康の四男北条氏邦が入り、拡張整備が行われ、
北条氏の北関東(両毛)支配と武田氏への備えとして、最重要拠点となりました。

1569年に武田信玄、1574年に上杉謙信、両雄の攻撃を受けても落ちなかった城ですが、
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで、前田利家等の攻撃を受け一ヶ月の籠城の末に開城。
北条氏邦は、前田家に預けられ、金沢で没しました。
徳川家康の関東入りの後は、
成瀬正一、日下部定好が代官となりますが、城としての規模はかなり縮小されていたと思われます。

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