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福岡城 [城巡り]

小倉を出て、下関で墓参を済ませ、福岡に戻ります。

下関に向かう関門大橋は大雨でした。
墓があるのは彦島。
壇ノ浦で平家が本陣を置いたところで、平家の落人伝説が残り、
イギリスはこの島の租借を馬関戦争の講和条件にしたと伊藤博文は回想しています。
犬山の観光特使である田村淳さんの出身地というのも奇遇です。

妻の祖父は、高等商船を出て海軍の駆逐艦の艦長で終戦を迎えました。
祖母は長崎の出身で女学校を出ていたという事で、
英語や関数の素養があり、びっくりしたと妻は語っています。

彦島に入ったときは小降りだった雨が、
墓地に着くころは大雨でした。
念のため花と一緒に購入しておいた合羽が役にたちました。


前回下関を訪れたときに見られなかった長府の櫛崎城の事を帰宅するまで忘れていて、
せっかく唐戸市場に立ち寄ったのだから少し足を伸ばせばよかったと後悔しました

帰りは晴れ渡り、関門海峡がよく見えました。
福岡方面に向かうとめかりPAには入る事ができないので、
壇ノ浦PAに寄ってみればよかったと、これまた後悔しました。

当然というべきか、海峡を挟む高地は戦略上重要なので、
関門大橋のたもとの山には門司城があり、毛利・大友の抗争の舞台となり、
近代では下関要塞の一部となっています。
事前の勉強で調べていたのもの、飛行機の時間があるので先を急ぎます。


以前は新幹線で博多まできて、
真夏というのに駅で水炊きまで食べたのに、
福岡城は素通りしてしまいました。

当時は場内に平和台球場があり鴻臚館が発見される前でした。
野球場がある城なんて痛々しくて見られなかったのです。

妻は福岡に住んでいた事があり、度々大濠公園を訪れたと言うのですが、
ここが城址だったとは知らなかったようで、
城址と気が付かれない城なんて益々可愛そうです。

その妻は墓の清掃で疲れ切ってしまったようで、
飛行機の時間も迫っており、
時々強い雨が降る中を一人駆け足の見学となりました。
墓参の為に購入した雨合羽が活躍したのは言うまでもありません。

DSC00879_R.JPG
下之橋枡型から下之橋御門と潮見櫓
下之橋御門は平成12年に焼失し、本来の姿と言われる上部構造を持つ二層の門として復元されました。
潮見櫓は黒田邸に移築されていたいものをここに移しました。
長く潮見櫓と言われてきましたが、
市内崇福寺から寺内に潮見櫓を移築したという記録がみつかり、
この櫓の本来の名称(位置)は不明になってしまいました。
それは置くとして問題は櫓の位置です。
櫓は上方の有利な位置から下の敵を攻撃する事に意味があります。
石垣から離して、しかも塀の後ろに櫓を置いても何の意味もありません。
本当に櫓が可愛そうです。

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名島門
小早川隆景の居城だった名島城の門だと言われています。
小早川秀秋が岡山に移ると黒田長政が名島城に入りました。
長政は福岡城を築き移りますが、
この門は家臣に下げ渡されたという伝承があり、
福岡の民家にあったものが現在の位置に移築されています。

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本丸下南側の石垣

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南丸の南北の隅櫓とそれを繋ぐ多門櫓
これを見るためにとにかく急ぎました。
この多門櫓の南隅櫓は重要文化財です。
写真の北隅櫓は復元されたものですが、違和感がありません。

もう時間がありません。
残るは本丸です。
優先度は低いのですが、ここでまきたら見ておきましょう。

DSC00900_R.JPG
本丸天守台
うわ!
ビニール合羽を着て雨と汗で大変な事になりながら急いだのに、
天守台の入り口(鉄御門)が工事中です。
がっくり・・・

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祈念櫓
鬼門にあたる方角に置かれた櫓で、
市内の寺で御堂として使われていました
漆喰・唐窓で櫓台に沿った大きさの古写真とくらべると、
全くと言っていいほど大きさも外観も異なります。

市内崇福寺には表御門が移築されています。
移転計画もあるようですが、長く山門だったわけですから、
復元した方がいいのではないかと思います。

市街化されている事もあり、縄張りの妙を見る事はできませんが
これだけの石垣は立派なものです。
天守建設計画もあるようですが、存在が分からない天守より、
櫓や門・壁を復元すれば、アクセスの良さもあり、近代城郭の集大成を表す城址になるのではないでしょうか。
できれば、競技場や場内を縦断する車道は撤去してもらいたいものですが。




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